旅の終わりは子ぬ方(にぬふぁ。沖縄では「北」)へ。 志賀島の最北には表津綿津見神と天御中主神 (北極星、子ぬ方星)が祀られる沖津宮が鎮座している。 島の方の車で、雨のなか北部の休暇村志賀島まで 送っていただき、お礼を言って別れ、海鮮丼を食した後、 まずは仲津宮へと急いだ。余談になるが、旧正月で週末 だったせいか、休暇村のメインレストランは地元名士に よる盛大な貸切パーティーの最中で、ランチ客は宴会場へ。 その「金印の間」から、駐車場と金印海道を挟んで、 玄界灘と海水浴場と、砂浜を散歩するカップルが見えた。 やがて雨は上がり、空を覆う雲は勢いよく流れていった。 ランチの後、休暇村から北へ7分ほど探し歩いて、 仲津宮に着く頃には、思いもよらないドピーカンに。 空を仰ぐと、鳥居に掛かる「勝馬宮」の社号が見えた。 神社の前庭のスペースに、御嶽というか神籬があった。 沖縄の御嶽と同じで神名は知れない。先の仲津宮古墳 の案内地図から想像すると、ここが古墳つまりお墓の跡か。 改めて、鳥居脇にあった案内板(を撮った写真)を見る。 仲津宮古墳 〜この古墳は、7世紀ごろ(古墳時代)に造られたもので、勝馬(かつま)を基地とした海人集団の首長の墓 と考えられています。この古墳は円墳で、円丘の径7m、 高さ1.5mの大きさをもち仲津宮の前庭に位置しています。 埋葬はまず、長さ約3.8m、幅約2.8mの長方形の縦穴を掘り、 その中に平たい石を用いて、4段以上に組み石室を造り (縦穴系石室)、少なくとも5体の埋葬が行われ(※中略)… 石室の床面には、須恵器の浅底のお椀のようなもの(坏身、 坏蓋)、須恵器の壺、鉄鏃、鉄矛、刀子、鉄斧などの鉄器、 表面に銀をはった金属製の耳環、ガラス製管玉、小玉 などが埋葬されていました。1997年3月 福岡市教育委員会〜 そう、安曇族は産鉄の民だった…と思ったりしていると、 拝所の左手に坂道があるのに気がついた。道は↓石段 に繋がっていた。※写真は降りてから振り向いて撮影した。 仲津宮の森を降り切るとそこは海。小島が浮かんでいた。 島の地図で見た沖津宮に違いないと、近づくとやはり…。 満潮で渡れないが、100mほど先に沖津宮が鎮座。 小島の中央に鳥居が立ち、山上へ登る石段が見える。 海神と星神を併せ祀る志賀海神社の摂社・沖津宮だ。 それにしても、仲津宮が古墳とは知らなかった。 岩に腰掛けて、スマホで福岡市文化財情報を検索…。 仲津宮古墳が発見されたのは平成6(1994)年のこと。 その後、発掘された古墳はまた埋め戻されたという。 古墳は「勝馬を基地とした海人集団の首長の墓」と 案内板でも見たが、首長とは誰だったのか。紀元前に 渡来した安曇族の、そして「漢委奴国王」の末裔か? と 思うところを、単に「海人集団」とは。謎めいている…。 残り時間がなかった。このとき13時。バスで港へ戻り、 14時のフェリーで志賀島を離れて、東京へ帰るのだ。 また来よう…と、立ち上がり、振り返って驚いた。 沖津宮を正面に見た位置の真後ろに、仲津宮の山が。 つまり、沖津宮と仲津宮は真っすぐに向き合っている。 いや、向き合っているのではない。もしや古代には、 沖津宮と仲津宮、そして表津宮(の元宮)は、ここ勝馬の地 配祀されていたのではないか…。このときは、そう思った。
by utoutou
| 2017-03-09 12:45
| 瀬織津姫
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