六甲山と瀬織津姫 162 続・琉球弁財天

那覇の善興寺に祀られていたという三面六臂の仏像。
真言宗護国寺の末寺・善興寺は冊封使の宿泊所であり
迎賓館だった天使館(那覇市東町)の近くにあった。

そのためか、「仏像は弁財天」とする册封使による
善興寺の目撃録がいくつも残っている。(※参考 :
真喜志遥子著『史料に見る琉球の弁財天信仰』)


「琉球の弁財天は六臂で、日と月を持っている」
と記したのは、1683年に来琉して『使琉球雑録』
  などを残した冊封使の汪楫(おうしゅう)。 

ちなみに、同じ尚貞王の時代の辞書『混効験集』
序文にも「我朝は神国、御本地は弁財天なり」と。

この弁財天の呼称が、「天孫神」とされた最初
は、冊封使・周煌(しゅうこう、1756年に来琉)
の時代のようで、「善興寺の仏堂には、不動王並び
に、三面六臂の天孫神像がある」との記録がある。

李鼎元 (りていげん、1800年に来琉)の記録も、
「更に神あり、三面六臂にして黒きこと漆のごとし。
従官曰く、これ国を開きし天孫氏の神なり」である。


そして、最終的には、江戸の作家・大田南畝が
琉球年代記』(1832年)に↓想像図を掲せて以来、
 善興寺「三面六臂の天孫神」は通説となるに至った。
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はたして実際に、天孫神は崇められていたのか?
しかし、この画像を見た語り部はバッサリと言った。
「三面六臂の弁財天とか、天孫神は聞いたことが
 ないですね。これは三宝荒神だと思います」と。

また、こんなことも言った。
「沖縄では荒神をフーチヌカミ(鞴の神)と呼びます。
冊封使の話に〝太陽と月を持つ弁財天〟とありましたが、
赤い太陽と満月を手にする荒神を見たこともあります。
鍛冶にとっても、火と水は必要不可欠ですから…」

さて、弁財天がはたして三宝荒神なのかについて、
どう確認すればよいのかと、つらつらと何日か
考えていたものだったが、遂に同書の別項(27ページ)
に、なんと語り部と同意見のくだりを発見した。
 
曰く、「荒神というは、天孫神のことなり」。
 (以下、内容要約)
 ☆吉月になると、民間では託女(おこで、神女)を
呼んで、「荒神ばらいの祈祷」をする。
☆アマミキヨ、シネりキヨ、あまつかみ、八幡宮、
天神大自在天神を拝し、琵琶を弾き法華経を唱える。

くだんの真喜志氏も、論文に次のように記している。
〜弁財天と荒神が習合しながら、天孫神に祀り上げ
られていったことが推測できると思う。〜

思えば、天神大自在天神こと菅原道真公の子孫と
称する一族が戦前まで東町にいたと、語り部は言って
 いたが、その人々は鍛冶屋(カニマン)だったのか…。

沖縄のカニマンは、決まって三宝荒神を崇めていた。


語り部が那覇のある家で見たことがあるという
「三宝荒神」の掛軸は、このような構図だったらしい。
沖縄図像研究会のHPより拝借した「鍛治神」。
首里生まれの日本画家・柳光観の画「フーチヌ神」)
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こちらも、柳光観の画による鍛治神の掛軸。
柳氏は大正元(1912)年生まれだが、戦前戦後に
 わたって多くの日本画や神像を描いたという。
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こちらは、首里観音堂(臨済宗慈眼院)の三宝荒神。
そのHPには、次のような解説が載っている。
〜仏・法・僧を守護するという神。俗に、不浄を
嫌うことから火の神にあて、カマドの神とされる 〜
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さて、三宝荒神について書いていると、奈良時代
の呪術者・役小角のことが、しきりと思い出された。
葛城山(金剛山)や大峯山中で祈祷した際、艮の方角
から出現したのが、まさにこの三宝荒神だったと伝わる。
いっぽう、六甲山の目神山では弁財天を感得したという。

琉球の鍛冶(カニマン)が三宝荒神を崇めたのは、
琉球王朝以来に限ったことではないと、御先(うさち、
上古)カニマンの存在を信じる私は考えるが、もしや
修験道の開祖・役小角も鉱脈の採鉱者だったのでは?

 というわけで、久々に話は六甲山に戻っていく気配…。




by utoutou | 2018-03-04 20:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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