六甲山と瀬織津姫 167 会下山遺跡

このところ銅鐸に興味津々な私に、語り部は辛辣だ。
語り部というか、語り部の交信する神が辛辣に言う。
「銅鐸ばかり追って、いったい何がしたいのか? 」と。

「アマミキヨの末裔は銅鐸と関係ないとでも?」
尋ねるも、語り部は同じ意見を繰り返すばかり。
「最近は(書く)方向がズレているように思います」

そんな会話を電話で交わしたのは3日前だったが、
折りしも3ヶ月ぶりの関西出張があり、前乗りして
会下山(えげのやま)遺跡(芦屋市三条町)を訪れた。


阪急・芦屋川駅から高級住宅街を登ること20分。
山手中学の西、芦屋市聖苑の横に遺跡の入口を見つけた。
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「会下山遺跡コース入口」と丁寧に看板がかかっている。
さらに丁寧なことに、フェンスのドアは施錠式である。
〜イノシシが出るので扉を開けたら、すぐ閉めて下さい〜
ここから徒歩10分で遺跡に辿り着くらしいが、つまり
遺跡は動物園の檻状態。ひとりで進む気になれず、断念。
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かわりに地図で【国指定 会下山遺跡】を学習。
〜約2000年前の弥生時代の高地性集落です。遺跡
は会下山全体に広がっており、縦穴式住居や祭祀場、
火たき場跡、掘跡、墓跡などが発掘されています。
標高約200mの山頂付近にある祭場跡は眺望が大変
よく、遠くの地域まで見渡すことができます。〜
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迷わずUターンしたのは、遺跡入口の近くに芦屋市の
文化財整理事務所(月・木が見学可)があるのを、
道すがら確認していたからだ。それでよしとしようと…。
    中に入るとそこは遺物の宝庫。しかも学芸員のご案内付き。      
↓会下山遺跡模型。左上が登山道入口、右の頂点が祭祀場。
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高地性集落の名の通り、南は大阪湾、紀伊山地までを
一望、北東は摂津地方北部の平野までを見渡せる。
その役割は、見張り場、逃げ城、集会、交易、集落、
畑作農耕、交通拠点、祭場など諸説あるというが、
祭祀場の石組やガラス玉など様々な遺物に目を引かれる。
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弥生時代中期〜後期(紀元前2〜紀元1)の遺跡だが、
想像以上に広範囲な交流・交易を示す遺物が多い。
丹後・近江・河内地域の土器片、青銅製漢式の鏃と弓器。
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こちらの事務所は、会下山遺跡だけでなく芦屋市の
文化財すべてを管理しており、所内は見どころも満載。
会下山遺跡から南東へ2㎞ほど、古代の打出浜にあたる
打出小槌古墳(5世紀末)出土の人物埴輪(レプリカ)も。
顔に入れ墨、ふんどし、被葬者は南方海人族の首長か!?
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会下山遺跡から銅鐸は出ていないが、銅鐸関連の展示も。
時代とともに銅鐸は大型に。黒色が神戸市桜ヶ丘銅鐸。
手前の薄い黒色のが淡路島松帆から出土した銅鐸。
最小の銅鐸は、芦屋市月若遺跡から出土した小銅鐸。
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ところで、
芦屋市の歴史は約2万年前の後期旧石器時代に遡る。
くだんの打出小槌古墳からはナイフ型石器が出土した。
氷河期の終わりで瀬戸内海はまだなく、芦屋は内陸部
だったというから、「芦屋=葦屋」の語源もうなづける。

ここでようやく語り部を通して届いたメッセージを解した。
「銅鐸ばかり追って、いったい何がしたいのか? 」
その問いかけの意味が、うっすら見えてくる。

銅鐸(青銅)の時代でなく、注目すべきはスズ鉄の時代。
原初のアマミキヨは、褐鉄鉱を探索した古代製鉄民だと、
芦屋こそが、「豊葦原の瑞穂の国」だということなのか…。











by utoutou | 2018-04-14 08:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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