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六甲山と瀬織津姫 197 伊礼原遺跡の「櫛」

北谷町の展示館から那覇へ戻ると語り部が言った。
「櫛は見ませんでしたか? 伊礼原を流れる
ウーチヌカー(※カー=川)の近くには、
御先(うさち、上古)時代に集落があったと思います」
しまった…土器ばかりに気が向いてしまい、
それ以外の遺物にはあまり注目しないできたが、  
語り部はおそらく、櫛が謎解きの鍵と読んでいるのだ。


伊礼原遺跡(沖縄県北谷町)の航空写真(赤丸)。
黄丸(私の加工)は観光地アメリカンビレッジの位置。
(※県立博物館・考古学ニュース('09年)より拝借)
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さて、話は続き…、私は聞いた。
「伊礼原遺跡から出た櫛が大事なんでしたか?」
「そうですね、出て来ます…」
神託か霊視か、ともかく彼は櫛のイメージを視ている。
出て来ます…とはそのこてで、彼自身も知らない
古の記憶が、何かの拍子にこんなふうに引き出され、
私はそのイメージをヒントにこれまでも追跡してきた
ので、今回も「櫛」は重要なアイテムなのだろうと思う。


その ↓ 櫛(※画像は考古学ニュースから拝借)。
「小川の川底から出土した木製櫛」。いまから
約2500年前の縄文晩期に作られたという縦櫛で、
長さ8㎝、最大幅4.2㎝。素材はなんと八重山黒檀。

つまり、この地で製作された櫛ということになるか。
広報ちゃたん」によれば、一枚板に先端の尖った
道具で両面から削る刻歯式(こくししき)技法による。
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それにしても、ちよっと驚いた。
八重山黒檀は木質が重く硬いことで有名な木。
現代でも琉球三線などの高級素材として知られる。
それを伊礼原の人たちは、何を用いて削ったのか?
道具についての研究結果は出ていないようだが、
縄文時代の利器ならば、黒曜石の断片なのだろうか。
では、その石を鋭利に削った道具は何だったのか?


1週間の沖縄旅行から東京に帰ってからも気にかかり、
くだんの「考古学ニュース」を溜息まじりに見ていたが、
思わぬところで目を見張った。これかもしれない…。
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↑ 伊礼原遺跡(低湿地区)の土壌図(左)。
いちばん下層に、「マングローブ」と記されている。

時代区分は、縄文時代早期のそのまた下層。
この伊礼原に人が住み始めたのは、約7000年前で、
縄文時代早期にあたるが、その前の時代区分というと、
縄文草創期(1万5千年前〜1万2千年前)にあたる。
無人の時代、伊礼原の低湿地はマングローブ林だった…。

沖縄各地で、いつも不思議に思っていたことがある。
マングローブ林のある川や湿地帯や海浜の土壌は、
あるいは水は、なぜ赤錆色をしているのだろうか?
その答えがもし、マングローブ(沖縄では主にヒルギ)
の茎に生成した鉄バクテリアが原因だったとしたら…?

それはやがて褐鉄鉱の塊となり(12年で固まるという)
原始的な産鉄の素材となり得るのではないか?

「豊葦原の瑞穂の国」について、これまで何度か書き、
瑞穂とは稲穂ではなく、褐鉄鉱を茎に生成させる
水草であるという説を引いてきたが、葦などの瑞穂に
マングローブが含まれるかもしれないとは考えなかった。

もしマングローブの茎に褐鉄鉱が生成したならば、
それを野だたらで焼くことで、可鍛鉄は得られる。
と同時に、その焼成の過程でベンガラも得られる。

大胆な仮説とは思ったが、語り部は静かに言った。
「そうですね、たとえば天女の伝説が残っている
銘刈川は、大昔はマングローブ林だったと思います」
天女は産鉄族の守護神…と、各地の産鉄地では言われる。














by utoutou | 2018-12-08 18:58 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)
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Commented at 2018-12-08 21:35 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2018-12-12 13:21
> 東鍛冶屋さん
返信が遅くなり申し訳ありません。そう言えば、私も2年ほど前にそちらのブログを拝読していました。当時は褐鉄鉱についてあまり知らなかったので、よくは理解できなかったのですか…。
たたら製鉄は仰る通り廃れたと思います。ですが、南城市大里にあるカニマン墓の付近から鉄滓が出たという話があります。褐鉄鉱でないにしても、これは砂鉄による製鉄が行われていた可能性を示唆するものだと思っています。
また、大里のヌンドゥンチには中山王・察度王と武寧王のトートーメがあり、この土地との関連を伺わせますが、ご存知、察度王は奥間大親と天女の間にできた子と伝承されていますね。語り部さんは、「この地にはウサチ・カニマンがいた」と地元の方から聞いたことがあるそうです。
Commented at 2018-12-13 15:19 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2018-12-25 09:31
> 東鍛冶屋さん
ご沙汰してしまいました。青銅のカニマンもいたのでしょうね。青銅から(砂鉄による)鉄器の時代へという変遷が教科書で習った鉄の歴史かと思います、それ以前の鉄…スズ鉄(褐鉄鉱)による製鉄については未知の部分が多いですが、私はあったと考えています。ヒーフチャー(火吹き男)という言葉が、スズ鉄のタタラで働いた人か、砂鉄のタタラで働いた人なのか、が知りたいところです。
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