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六甲山と瀬織津姫 201 海に沈んだ龍宮城

猿田彦の率いる一族はメソポタミアから来た…。
つまり久高島に渡来した古代海人族は、シュメール
から来たと、語り部は言っているわけだが、
私がその話を聞いたのは1度や2度のことではない。
ただ、私自身が書き残すことを躊躇っていただけだ。

シュメール(スメル)から来たという歴史ならば、
この戦後GHQによって絶版・焚書となったと言われる
伊予国一宮大山祇神社の三島敦雄元宮司による著書
天孫人種六千年史の研究」にも記されている。
が、琉球古伝によれば、天孫氏王朝は17802年続いた。
 つまり、氷河期とその後の時代をも挟んで断続的に…。

その間、人々は動いた。古代琉球からメソポタミアへ、
さらにシュメールで都を成した後、再び日の本の琉球へ。
冒頭、語り部が「シュメールから来た」と言うのは、
先祖の元へ里帰りした人々についての伝承なのである。

そもそも一族が、大陸の西を目指した理由は、
氷河期が終わって大洪水が起き、古陸が沈没した
ための神託によるエクソダス(脱出)だったようだ。

語り部に聞いた古伝を、「東国三社 6 ノアの方舟
に書いたが、読み返すと我ながら腰が引けている。
けれども、神女の語り継いだ古伝には整合性がある。


ちなみに、久高島を沖縄本島に向け出帆するとき、
右に見えるイラブーガマの上部が、スベーラの御嶽。
ユーウラヌ浜と同様、嶽名がシュメールを思わせる。
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さて、帰り際、那覇で会った語り部に、
久高島の御嶽廻りから三角点に至る様子を伝えると、
すぐさまこんな反応があった。

「三角点の山に、赤いマニ玉が視えます。それは、
龍神が頭に乗せて久高島へと運んで来たものですね。
その龍神は、龍宮、というより海底宮殿にいました」
「海底宮殿って、どこのですか?」
「斎場御嶽と久高島の、ちょうど合い中の場所です」
「あったのですか?」
「そこが後の猿田彦となる龍神(海神)の住処だった」

「すると、海底宮殿というか、
その竜宮城は、氷河期以前にはあったけど沈没した?
そして、その話が後に、豊玉姫・玉依姫のヤマト神話
の原型になっていったというわけですね?」
「はい」

語り部と出会った11年前、その海にふたりの美しい
姫が立つのを見る…と言っていたことを思い出す。


朝、たまたま高速船の上から海を撮っていた。
久高島と、斎場御嶽近くの知念岬との距離は5.3㎞。
そこにいまも龍宮こと海底宮殿が沈んでいるのか?
六甲山と瀬織津姫 201 海に沈んだ龍宮城_a0300530_07512309.jpg





龍神が頭に乗せていたという龍宮の珠(ぬぶし玉)。
私はようやくゴールへの最終コーナーに入ったのか。
恐る恐る、聞いた。
「あの琉球版ノアの方舟の伝説を考えれば、
龍神が運んで来たというマニ玉は、ムー大陸から来た
太陽神の化身と考えられる…わけですよね?」
「はい、赤琥珀のように鮮やかで透明な赤い玉です」

それが長い長い歳月を経て、何らかの理由で、
海人族によって六甲山へと運ばれたのだろうか。

2時間ほどお茶を飲みながら話し、これで今年
最後の沖縄旅をめでたくお仕舞いにできる、と
  思ったとき、語り部に新たなビジョンが舞い降りた。 

「久高島の集落のなかで、もう人が住んでいなくて、
ふたつの香炉が残されている家はどこですか?」
もちろん私に問われても、まったく分からない。

「外間ノロ家から外間殿に行く道の途中の、
イチャリ(※屋号)家の手前の角あたり…。
あ、屋号はウプチマリヤーという家のようです」
「その家がどうしたのですか…?」
「うさち(=上古)の島軸・国軸を授かっていた家。
 あの豊玉姫たちの船とも関係があるようです」


島の某家に祀られている ↓黒い船(ワニ船)。
そうか、あの船はやはり太陽を運ぶ船だったのか…。 
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ウプチマリヤー。
初めて聞くその名を、うわ言のように呟いて帰京した。

























by utoutou | 2019-01-06 13:01 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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