六甲山と瀬織津姫 210 本当の建国記念日

神武はなぜ、天皇の鎮魂祭を、仲冬(しもつき)
の中の寅日(旧暦11月15日)に永続して行えと、
また神楽を奏して一二三四五六七八九十と十種
祓詞を言挙げせよと、宇摩志麻治命に詔したのか?

その詔は、『先代旧事本紀』だけに載る。
宇摩志麻治命は饒速日命の子、物部の祖である。
皇室や神社庁が、物部式の鎮魂祭を続ける理由は…?

などと考えていて、今朝、あることに気がついた。
明治政府が建国記念日の前称「紀元節」に定めた
2月11日は、初代神武が天皇に即位した日ではない。
  
『日本書紀』によれば神武即位は紀元前660年正月。
明治政府は、明治5年に導入した太陽暦(新暦)に
換算して太陰太陽暦(旧暦)の正月である2月11日
 を紀元節と定めたが、そもそも使う暦が違っていた…。

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神武のいた古代、正月は冬至と同じ日だった。
「冬至正月」は、「日の出ずる国」の暦の基本だ。

そのため、古代天皇は一貫して正月に即位した。
例えば、神武は元年正月1日、綏靖は元年正月8日、
開花は元年正月14日、崇神は元年正月13日に即位。
壬申の乱の時代を除き、その慣習は天武まで続いた。

正月=天皇即位の日=大嘗祭、であった理由は、
大嘗祭前日に行われる鎮魂祭に見ることができる。
鎮魂祭で歌われる大直日歌(おおなほひのうた)
は、正月を寿ぎ詠ったものである。
(以下の句は『御即位及大嘗祭』より拝借)

あたらしき年の始にかくしこそ
千とせをかねてたのしきをつめ

『古今和歌集』に掲句されるこの和歌、意味は、
新年の始めにはこうして、千年先の未来まで
積み木を積むように楽しく想う…と解釈できる。

大嘗祭と冬至と正月の関係は、鎮魂祭において、
天鈿女命が踊り、天の岩戸から天照大神が姿を現した
あの神話が再現されることからも、よく分かる。
闇から光へ、閉ざされた岩戸が開いて新年が始まる。


春斎による錦絵。「岩戸神楽乃起顕」(江戸前期)。
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ところで、
仲冬(しもつき)の中の寅の日(旧暦11月15日)
は、新暦12月22日にあたる。冬至の頃である。
沖縄・久高島のイザイホーも、同じ旧暦11月15日、
子(ね)の月の満月の日没に始まる祭りだった。
その時期は必ず、冬至とクリスマスに重なっていた。

ところが、
神武の命じた鎮魂祭は、新暦11月22日に行われる。
冬至にあたる新暦12月22日頃は、1ヶ月も後である。
この食い違いは、いったい何によるものだろうか?

その答えは吉村貞司・著『原初の太陽神と固有暦』
にあった。氏が発見した「固有暦」とは、旧暦が
実施される前からこの国の人々が使っていた太陽暦。
それが中国暦の下に潜んでいると、吉村氏は記した。

旧暦(中国暦)は持統4(690)年に実施された。
持統以前に使用された暦を氏は「固有暦」と呼ぶ。

その暦を順に並べると…固有暦(旧太陽暦)→
旧暦(中国暦、太陰太陽暦)→新暦(新太陽暦)。

同じ太陽暦でも冬至の定義が違うようで、
最初の固有暦は新暦11月22日頃を冬至としたもの。
今日の大嘗祭は、それに則っていると考えられる。

実は持統は、即位関連の式を2度も挙げていた。
1度目の即位式を、持統4年1月1日に固有暦で。
2度目の大嘗祭を、翌5年11月24日に旧暦で。

暦は新旧を切り替えたが、正月即位は断固譲れない
と、持統がこだわったための苦肉の策だろうが、
確かに暦が変わればそれまでの正月は「普通の日」。
持統に倣い、以降の天皇は即位式と大嘗祭を分離した。

つまり、
固有暦の元旦=旧暦11月24日=新暦の冬至の頃。
これも、今日の大嘗祭の日程とほぼ合致している。
旧暦も新暦も知らない時代の天皇・神武の即位日。
本当の建国記念日とは、「冬至正月」だったのだ。

ゆえに仲冬(しもつき)の中の寅日は「大晦日」。
神武が宇摩志麻治命に発した詔が永続する理由は、
そこにある。太陽の運行は誰にも変えられない…。


「冬至正月」の日の出。久高島の伊敷浜で撮影。
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by utoutou | 2019-02-11 10:34 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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