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六甲山と瀬織津姫 220 大王の名は向津彦

巻向の穴師山にいたはずだと、語り部の言う
大王(おおきみ、日御子)と大君(おおきみ、日巫女)。
「祭政一致だった古代の王族、ヒコ・ヒメですね」
そう聞くと、私には初めて聞く呼称が出た。

「はい、向津彦と向津姫だと、私は思います」
「むかつひこ、むかつひめ、ですか…。
琉球王朝の王と聞得大君のような関係ということ?」
「大王である兄と、斎王である妹といった関係かと…」

口には出さなかったが、私はこう思った。
向津彦=天照国照天火明櫛甕玉饒速日命
向津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津姫命

このことは、以前にも何度か書いたことがあった。
饒速日命」では、久高島との関係を推理した。

一昨年、磐船神社(大阪府交野市)に参拝後
は、「天照国照天火明櫛甕玉饒速日命」を連続投稿。
あのとき、「岩窟巡り」という難行にも挑戦したが、
コースを終えた出口の先で ↓一対の龍蛇に出会って確信した。
饒速日命(天照大神)と瀬織津姫…ヒコ・ヒメの暗示だと。
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同じシリーズ「天照国照天火明櫛甕玉饒速日命」では、
久高島の第一祭場・外間殿にある「百甕」についての
語り部の大胆な謎解きを紹介していたものだった。

私自身も忘れていた内容だったので、以下にコピぺ。

〜百甕とは、「甕」のついたヒコと、「百」のついたヒメ
という一対神のことだと思う」と、語った2柱の神とは、
ヤマトの三輪山に住まう蛇神・大物主神と、その妻・
迹迹日百襲姫命が当てはまる。すると、琉球は、
大物主神の原郷ということになるか。

大物主神とは饒速日命のことだと大神神社な参拝の
後に書いていたが、その亦名は倭大物主櫛甕玉
(やまとおおものぬしくしみかたま)命、「甕」
の一字が含まれている。〜


今回も奈良旅でも参拝した大神神社の拝殿前。
由緒板には、「ご祭神 大物主神」とあるが、
『出雲国造神賀詞』は、倭大物主櫛甕玉命と亦名を記す。
六甲山と瀬織津姫 220 大王の名は向津彦_a0300530_16145381.jpg






ヤマトの国の巻向の穴師山にいたヒコ・ヒメとは、「百甕
(むむはめー)」こと、倭大物主櫛甕玉命と迹迹日百襲姫。
という推理が、このブログでは既に出てしまっていた。

ではなぜ、そのヒコ・ヒメ、または向津彦・向津姫
は、三輪山ではなく、穴師山に立っていたのか?

語り部は、逆に質問した。
「三輪山の頂上には、何という神社がありますか?」
「高宮神社(こうのみや神社)ですが、元々あったのは、
神坐日向神社(みわにいますひむか神社)のようです」
「その方です。日向王子(ひむかおうじ)が向津彦。
  ただ、神坐日向神社はヤマト王権側に追いやられて、
本当の向津彦・向津姫は、穴師山に〈坐す〉ことになり、
移動しなくてはならなかったのだろうと思います」
「追いやられた…?」


三輪山に登拝」したときに参った高宮神社
祭神・日向御子神(日向王子)が向津彦だったとは。
ということは、つまり…?

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by utoutou | 2019-03-24 16:44 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)
Commented by たぬき at 2019-04-14 08:23 x
古代出雲王国の2つ有った王家の内、東出雲に拠点を置いた向(ムケ、ムコウ)王家。又は富(トビ)王家(松江市大庭。神魂神社が元王宮殿(なんと、二千年前の王宮殿(当主の居所)の姿をほぼそのまま伝えているそうです)。)
の直系末裔の伝承では、
三輪山に先駆けて葛城に出雲神(カモ)族(=王族)、富家出身のクシヒカタさまらが移住入植して開発を開始(奈良/ヤマト地域の歴史の始まり)
渡来人(秦国人。首魁は徐福。実行犯はホヒとヒナドリ(出雲国造の始祖ら))により非業の最期を遂げた亡父、八重波津身の御霊を神祠にまつり氏神と仰ぐ。
後世、鴨都波神社となり、祭祀は事代主神に改ざんされた。
開発をする中、この葛城の高台から秀麗な三角垂の小山が良く見えたようで、
そこに故郷の出雲地方の第一の神奈備、火神山(後、大神山。更に大山(伯耆大山))を重ねて、
出雲族と王国の国教、幸之神三神(久那斗大神(主神)。幸媛之命(后神。/水神(弁天)。太陽の女神(天照大神)。豊穣繁栄の女神。八街媛神ほか、。)サルタ彦大神(御子神/サルタは長(大きな)鼻の意味=ガネーシャ尊))と卷属神の龍蛇神を祀ると共に
亡父、八重波津身命(出雲王国第八代スクナヒコ(副王の称号))を大物主神と奉祭。
その初代祭主/日女命(=大巫女)にはクシヒカタの同父母実妹の媛踏鞴五十鈴日女命が奉仕。

系譜上の初代天皇、天村雲命が丹波から南下して威勢を張り、先住の葛城の出雲神族らが折れて
天村雲命を大王に推戴。大王后には登美家から歴代后を娶る事ほかを約定して
初代大王后には媛踏鞴五十鈴日女命が入台。
と同時に三輪山の神を崇めて、国巫女/大倭日女命に。
以降、登美家の血筋の日女命が大王后かつ三輪山の祭祀を行う大巫女の慣わしが王朝滅亡迄守られた。
特に優れた巫女さまには大倭日女命の称号が奉られたようです。
また、出雲族らは朝日を拝む慣しか、三輪山から刺し登る朝日を太陽の女神(原形はインドのスーリャー女神)と仰ぎ、三輪山は太陽の女神の山と信仰されて
奉仕する大巫女/国巫女は大日霎貴命/大日女(ヒルメ)命と呼ばれて太陽の女神と同等に崇拝されたようです
これが三輪山に神祭りした端緒だとか。
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