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六甲山と瀬織津姫 245 ちはやふる・卑弥呼

「ちはやふる」の「千早」が、辰砂(水銀朱、丹生)
の産地を指す「血原」と同義ならば、あの金印が
 出土した志賀島(福岡市東区勝馬)で詠まれた歌も
  また、これまで知られてきた解釈と異なってくる。


志賀島の金印は、「ちはやふる」と関係があるのか?
志賀島を訪れたのは2年半前の冬。閑散としていて、
港に置かれた巨大レプリカが、異彩を放っていた。
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志賀海神社の長い参道で、この万葉歌碑を見た。

〜 ちはやふる 鐘(かね)の岬を過ぎぬとも
われは忘れじ 志賀の皇神(すめがみ) 〜

傍の解説には、次のようにあった。
〜 航海に難所である鐘の岬を過ぎたとしても、
わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を
忘れません」という意味の歌です。ちはやぶるとは、
凶暴なとか、勢いが強い意味とされ、鐘の岬は
現在の宗像市鐘崎の織幡神社が鎮座する岬で(中略)
志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が
詠んだものです 〜


しかし、私は島の人から聞いた話を参考にして、
「鐘の岬」は志賀島の「かねのさき」ではと考えた。
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志賀島を訪れた後に書いた「金印・漢委奴国王
 を振り返りつつ、「ちはやふる」を再考してみる。
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ところで、
志賀島で発見されたあの金印が、封泥(粘土封緘)
であることは、いまや定説で、福岡市博物館では、
その封泥を作る体験イベントまで行われたようだが、
そうなると、古代、志賀島に国際貿易港があったか
という仮説は、なんだかますます濃厚になってくる…?
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封泥で押印された船の積荷が、歌の枕詞にある
「ちはやふる」、つまり辰砂だったならどうだろう?

この数日、そんなことを考えていたものだった。
志賀島「かねのさき」の近くの港で検閲のうえ封泥
 された朝貢品は、外航船に積み替えられ大海を渡った…。

志賀島で発見された金印は、建武中元(57)年に、
光武帝が倭奴国王に授けたものとされているが、
景初3(239)年、魏の国王が邪馬台国の女王・卑弥呼
に授けたという金印は、未だ発掘されていないという。

まさにその頃、正始4(243)年、倭王・卑弥呼は
使いを出して「帛布、丹、木柎短弓、矢」といった
 貢物を魏に献上したと、『魏志倭人伝』は記している。

「ちはやぶる」は、貢ぎ物の中の丹(辰砂)なのか?
ところが、万葉歌の原文は漢字で書かれている。

〜千磐破 金之三崎 過鞆 吾者不忘 牡鹿之須賣神〜

「千早振る」ではない、「千磐破」をどう読むか?
  ここで、謎解きはいったん暗礁に乗り上げた…。

by utoutou | 2019-07-07 10:31 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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