「ちはやふる」の「千早」が、辰砂(水銀朱、丹生) の産地を指す「血原」と同義ならば、あの金印が 出土した志賀島(福岡市東区勝馬)で詠まれた歌も また、これまで知られてきた解釈と異なってくる。 志賀島の金印は、「ちはやふる」と関係があるのか? 志賀島を訪れたのは2年半前の冬。閑散としていて、 港に置かれた巨大レプリカが、異彩を放っていた。 ![]() 志賀海神社の長い参道で、この万葉歌碑を見た。 〜 ちはやふる 鐘(かね)の岬を過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神(すめがみ) 〜 傍の解説には、次のようにあった。 〜 航海に難所である鐘の岬を過ぎたとしても、 わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を 忘れません」という意味の歌です。ちはやぶるとは、 凶暴なとか、勢いが強い意味とされ、鐘の岬は 現在の宗像市鐘崎の織幡神社が鎮座する岬で(中略) 志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が 詠んだものです 〜 しかし、私は島の人から聞いた話を参考にして、 「鐘の岬」は志賀島の「かねのさき」ではと考えた。 ![]() 志賀島を訪れた後に書いた「金印・漢委奴国王」 を振り返りつつ、「ちはやふる」を再考してみる。 ![]() ところで、 志賀島で発見されたあの金印が、封泥(粘土封緘) であることは、いまや定説で、福岡市博物館では、 その封泥を作る体験イベントまで行われたようだが、 そうなると、古代、志賀島に国際貿易港があったか という仮説は、なんだかますます濃厚になってくる…? ![]() 封泥で押印された船の積荷が、歌の枕詞にある 「ちはやふる」、つまり辰砂だったならどうだろう? この数日、そんなことを考えていたものだった。 志賀島「かねのさき」の近くの港で検閲のうえ封泥 された朝貢品は、外航船に積み替えられ大海を渡った…。 志賀島で発見された金印は、建武中元(57)年に、 光武帝が倭奴国王に授けたものとされているが、 景初3(239)年、魏の国王が邪馬台国の女王・卑弥呼 に授けたという金印は、未だ発掘されていないという。 まさにその頃、正始4(243)年、倭王・卑弥呼は 使いを出して「帛布、丹、木柎短弓、矢」といった 貢物を魏に献上したと、『魏志倭人伝』は記している。 「ちはやぶる」は、貢ぎ物の中の丹(辰砂)なのか? ところが、万葉歌の原文は漢字で書かれている。 〜千磐破 金之三崎 過鞆 吾者不忘 牡鹿之須賣神〜 「千早振る」ではない、「千磐破」をどう読むか? ここで、謎解きはいったん暗礁に乗り上げた…。
by utoutou
| 2019-07-07 10:31
| 瀬織津姫
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