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六甲山と瀬織津姫 247 ワニの船

つい先日、日本人の祖先が台湾からどう渡来したか
を探っている、国立科学博物館のチームの丸木舟が、
 与那国島への航海に成功したというニュースを見た。

古代船を造ってから3年がかりのプロジェクト。
葦舟や竹船で航海に挑んたものの、失敗したという。
※写真は日経新聞から拝借
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ニュースを見た頃、語り部も古代船を霊視していた。
「マナシカタマというのは、葦船のことですか?」

という電話が入る。そして、立て続けに言う。

海幸山幸の神話で、塩土老翁が造って山幸を乗せた
小船は、マナシカタマと呼ばれていましたか?
「浦島太郎の乗った亀も、マナシカタマでしたか?」 

「はい、そのようです」と、私は調べてから言った。

マナシカタマ。
日本書紀に「目無籠」「無目堅間」などとある。
文字通り、目が無いほど固く編んだ竹籠製の古代船。
底に自然タールを塗って海水の浸水を防いだらしい。

それは、カタマランと同じ意味だと考えている。
南太平洋ポリネシアの原住民が造った双胴船。
竹船や葦船を繋げた双胴船もあったらしい。
南洋渡来の海人族だった私たちの遥かなる祖先が、
そのマナシカタマで大海を渡ってきたという記憶が、
海幸山幸のヤマト神話につながったのだとも…。


アマミキヨの渡来したヤハラヅカサとその周辺
の仲村渠(南城市玉城)にも、こんな伝説がある。

「昔々、アマミキヨは竹で造った船でやって来た。
そのため、子孫にあたる旧家では屋根に竹を使った」

どれぐらい古い伝説なのかは定かではないが、
アマミキヨと伝わるからには、島立ての頃からの話。
また、琉球の稲作の地と伝わる海岸近くの受水走水
(ウキンジュハインジュ)には、御嶽上部に磐座があり、
その名は、「タカマシカマノ」と呼ばれる。それは、
マナシカタマ」の変化したものだろうとの説もある。


電話の後、私は語り部に、あの東殿塚古墳の
 埴輪に描かれていた古代船の写真を送った。
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卑弥呼と同時代、3世紀後半の古墳から出土した
埴輪に描かれていた古代船である。奈良県天理市
の龍王山一帯は古代豪族・和邇氏の本拠地で、
私はあの5月末、和爾赤坂比古神社に参拝していた。

「写真がちょっと不鮮明なのですが、私が視た竹籠
 の船と似ていますね。卑弥呼一族の船だと思います」

そのときだった。和邇氏の祖とも言われる、
和爾赤坂比古神社の祭神について、閃いたものだ。

祭神は、吾田賀田須命(アタカタスノミコト)。
アタ・カタ・ス。(薩摩)の阿多から籠(カタマ)
でやって来た祖先という意味じゃないだろうか…!?


和爾赤坂比古神社に参拝したときから、脳裏に
引っかかっていたそのご祭神・吾田賀田須命の名前。
朱産地を表していたのであろう「赤坂」を治めたヒコ。
相祀されるヒメは、市杵島姫と毛筆の説明板があった。
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語り部の意見を聞くと、こんな反応があった。
「和邇の祖でしょうが、元々の海神というよりは、
和邇氏系図に入り、この地を治めた海人のようです。
阿多は、(鹿児島県)薩摩半島の南西部ですね」

そうなのだった。ヤマト神話で、天孫ニニギが
山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれた
のが阿多の笠沙。また阿多隼人の本拠地でもある。

吾田賀田須命は、阿多隼人の祖か、和邇氏の祖か。
あるいは、阿多隼人の祖は、和邇氏の祖なのか。
また新たに難しい課題が浮上してきた。


by utoutou | 2019-07-16 19:42 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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