昨日の朝、奈良・二上山の落日を夢に見て、 あ、きょうは秋分の日だったと気がついた。
大和盆地からその光景を見たことはないので、 水谷慶一氏の著『謎の北緯三四度三二分を ゆく・知られざる古代』で見たことのある↓写真 (撮影・小川光一氏)が、夢の作用で甦ったようだ。
今年4月に参った檜原神社(奈良県桜井市)。 あのときも鳥居から正面(西)の二上山を遠望、 太陽の道に沈む春秋「二分」の落陽を想っていた。 
太陽の道(↓写真のみ日経新聞より拝借)。『知られざる古代』の序に、著者はこう書いた。〜北緯34度32分が日本古代の「太陽の道」だったことを著者は検証した。その中心が大和の三輪山に近い箸墓で、東西に延ばしたその線上に、ふしぎと古代遺跡が集中している。これが聖なる太陽の道であって…(後略)〜
太陽の道が誰によって作られたかについては 触れず、水谷氏は「奇蹟」と記すのみだったが、実は前回のブログで天香具山の天岩戸神話を書いた後、私は思いもよらない事実を悟った。(無知だっただけなのかもしれない…笑) 太陽の道は水銀朱の眠る「花崗岩の道」だ。 天岩戸神話の舞台・天香具山(奈良県橿原市)には、天香具山神社が鎮座しているという。背後には「天の岩屋戸」と言われる巨石があり、なんとそれが花崗岩の巨石だということを「山の辺の道散策ガイド」の記事で初めて知った。 天照大御神が籠もった岩屋が花崗岩だったという伝承は、いくつかの仮説に私を導いた。 ☆神話で岩屋から現れた天照大御神は、海人族(金属採掘民)の女神(丹生津姫、瀬織津姫)の神徳を受け継ぎ、転生した。 ☆記紀に朱の女神・丹生津姫が登場しないのは、そのためだった。やがて海人族の山師たちは大和 から、後にそう呼ばれる「蝦夷の国」へ北上した。 ☆天岩戸神話は、花崗岩質の「丹生の道」を 朝廷の管理下に置き、独占採掘するための布石。大陸からの新技術を持った民が台頭していたか。
さて、太陽の道は中央構造線にほぼ沿っていると言われるが、正しくはその北(内側)を走る領家帯という地層に存在していた。下の地図では、淡路島を貫通して東西に伸びるピンク色の部分。その基盤地層を占めているのが「領家花崗岩」だ。(イラストは山口大理化学部サイトから拝借)
記紀の成立当時、大和朝廷は半島・大陸との交易に金銀銅などの貴金属を使ったと、またそれが大和朝廷の外交を支える経済基盤だった と、浅井壮一郎氏は、『古代製鉄物語』に記した。 大和朝廷にとって「太陽の道」は「財宝の道」。思えば、丹(辰砂、水銀朱)は金・銀・銅の 鉱床で採れる。水銀はそれらの母岩の割れ目に、岩石状に付着しているものなのだという。逆に言えば、花崗岩の地層からは金・銀・銅といった金属も同時に採掘されていたことになる。 さらに思えば、名だたる金鉱の産地は、その 土壌に太古のマグマ…花崗岩を内包していた。佐渡金山、金華山、石見銀山、金剛山、生駒山、葛城山、そして秩父の武甲山なども。 六甲山もまた、花崗岩の山だった。 「ちょっとした発見をしたかもしれない…」 と、夕方になってから語り部に電話した。 すると、ずばり神人らしい指摘が返ってきた。 「朱の女王は誰でしたか?」「日と火と霊を司祭する日巫女ですね」「またの神名は?」「撞賢木厳之御魂天疎向津姫(瀬織津姫)。 あ、だから、六甲山の廣田神社に祀られた というわけですね。天照大御神の荒魂として…」悟りは、つづく…。
by utoutou
| 2019-09-24 20:20
| 瀬織津姫
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琉球の始祖と伝わるアマミキヨとは誰か。その痕跡を追う旅ログ。南城市玉城で出会った語り部と共に謎解きする、古代琉球の神々の事々。写真・文章を転載の場合はご一報お願いしますm(._.)m
by utoutou
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