五色塚古墳の朝顔型円筒埴輪について、 「甑」を模したものだと感じ、そう書いていたが、 きょう、同意見の報告書があるのを知り驚いた。 昭和4(1929)年、考古学者の福原潜次郎氏が 記した『兵庫県明石郡垂水五色塚古墳について』 がそれで、(以下意訳)「ツバやヒレのついた埴輪を 疑問に思っていたが、正体を明らかにし甑と認める に至った。その結果、名称の由来は甑塚と断定した。 古から甑塚と呼ばれたが、やがてゴシキと 一音濁り、五色の文字を使うようになった…」 ![]() タイトルにある「明石郡垂水五色塚」の場所 にも、目からウロコが落ちた。五色塚古墳は いま神戸市垂水区にあるが、古くは播磨国明石郡 垂水に築造されたことを、忘れがちになっていた。 いっぽう、平成15(2003)年に発刊された 『五色塚古墳・小壺古墳 発掘調査復元整備報告書』 では、「謎の被葬者」に関する記述に出会った。 ひとつは、被葬者に関する所見で、その人は 「明石国造の都弥自足尼(つみじのすくね)に 違いない」(意訳)というものだ。 もうひとつは、古墳の石棺に関する目撃者談。 海神社の宮司上月氏は言った(寛永2、1625年)。 「五色塚古墳の頂上で石郭の破片を見て、持ち帰った が、内部には石棺があった可能性がある」(意訳) これら話のピースを繋げると、次の推理が成り立つ。 〜 五色塚古墳の被葬者は、(応神天皇時代に) 朱の交易で巨富を築いた明石国造・都弥自足尼 で、石郭内の石棺に埋葬されたと考えられる。〜 ところで、先日行った神戸の旅では、淡路島から 海神社へと移動して参拝した。まさにあの、 五色塚古墳で石郭の破片を拾ったという上月氏が 司祭した神社。社務所でお尋ねしてみたかった…。 海神社(かいじんしゃ、神戸市垂水区)。 五色山から東へ550m、国道2号線沿いに鎮座。 この本殿の北側に隣接するようにJR垂水駅がある。 五色塚古墳の被葬者と関係するかもしれないと、 あのときもそう考えて訪れてみたのだった。 ![]() ![]() 御祭神は綿津見大神(三神)である、 底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神。 配祀は大日霊貴尊(オオヒルメムチノミコト)。 その別名は天照皇大神だと、由緒にあった。 鎮座は、神功皇后の三韓征伐に由来する。 社伝によると、(神功皇后が)お還りの時、 暴風雨のため船が進まなくなったため、綿津見三神 を祀り祈願すると、たちまち風波が収まったという。 ![]() 社号の赤い扁額には、こう書いてあった。 左から、稲荷社・蛭子社・猿田彦社。 中央の蛭子社には、ヒルコ神を祀っているようだ。 アシア人がいたと語り部の言う南九州の甑島にも、
六甲山の越木岩神社にも祀られる、蛭子大神である。
by utoutou
| 2019-10-08 18:16
| 瀬織津姫
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Comments(3)
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> まこまこさん
こんにちは。コメントありがとうございます。六甲に通いながら、いつか明石海峡へと思っていましたが、遅すぎたかもしれないですね。こんなに重要な場所だったとは! 行ってみると、この地方の神功皇后伝承地が神戸、西宮、尼崎に集中しているのには、明石を隠す目的があったのかも、と、伝承に潜む意図すら勘ぐってしまいました(笑)。後ほどブログを更新しますが、まこまこさんの「海辺に蛭子神社がたくさんある」という話に、今回はヒントをいただきました。垂水の海神社の一の鳥居は砂浜に立っていたということですが、そこから五色塚古墳の海岸線には明石までは、逆に神社がありません。五色山が古墳になる前は貿易センターのような場所だったのでは? と考えたりしています。それにしてもよいところですね!
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