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六甲山と瀬織津姫 269 丹生都比売の渡来

爾保津比売(にほつひめ)は、
国堅大神(くにかためししおおかみ)の子。
神功皇后「以前」の丹生山に所縁があるという。


丹生山に鎮座していた七社神社(神戸市北区山田)。
祭神は大国主命(写真は神社庁サイトより拝借)。
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 丹生都比売(にゅうつひめ)は丹生氏の守護神。
 神功皇后「以降」に渡来、紀伊国に鎮まったらしい。
(写真は丹生都比売神社より拝借)
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 どちらも丹生の女神、つまり同神と考えていたが、
語り部は否定した。そこで「播磨国風土記逸文」
で丹生都比売祭祀起源をよく読むと…。確かに、
 同神でなく神功が連れ帰った女神と解釈できる。

(以下、岩波文庫『風土記』より自前の要約)
☆国堅めましし大神の子・爾保都比売の命が
国造・石坂比売を通じて息長帯日命に教えた。
☆「丹(赤い)波を立てて行けば平伏できる」と。
☆新羅を平伏できたので、新羅の神を連れ還り、
紀伊の国の管川の藤代の峯に祀った。

「神功皇后は、新羅の丹生の神を勧請することに
成功した。つまり新しい丹生採掘技術者集団を
 連れ帰ったと。そういうことだったのですね…」

伝えると、語り部はかなり冷静な声で言った。
「そうだと、前々から思っていましたよ」

そうすると、神功皇后の
 新羅(三韓)遠征伝承の骨格はもろくも崩れる。
 それは応神天皇を身籠ったままの行軍ではなく、
「赤子=新たな丹砂(朱)」の交易ルートを探し、
 新技術を導入するための交渉が目的だったかと。

『邪馬台国は朱の王国だった』(蒲池明弘著)
にも、次のような考察がある。(要約)
☆「丹」と「誕」は発音・意味が共通している。
☆「丹」は採掘の穴から丹砂が現れ出るさま、
「誕」は母体から赤子が外に現れ出るさまだ。
☆神功皇后が赤子(応神天皇)を生むことは、
大地から朱鉱石が掘り出されることの比喩的表現。

そして、神功は赤土の霊験により交渉を成立させ、
応神とともに丹生氏ら技術者集団が渡来したと。

ならば、仲哀天皇の「偽墓」と語られたあの
 ↓ 五色塚古墳(神戸市須磨区)伝承も、崩れ去る。
応神が神功の子でないのなら、異母兄弟である
 香坂王・忍熊王との皇位継承争いも起こらない…。
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 丹生都比売の渡来時期を、神功皇后「以降」と
  解釈すれば、歴史はドミノ倒しのように変容する。

変わらないのは、ふたりの姫に関する伝承だ。
爾保津比売(にほつひめ)は国堅大神の子。
丹生都比売(にゅうつひめ)は丹生氏の守護神。

では「大国主命の祖」と語り部が言う国堅大神
とは、いったいどのような神なのだろうか?

「天地開闢の神話に登場する神様ですね」
と、語り部は言う。



by utoutou | 2019-10-30 18:15 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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