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首里森の御嶽は残った〈4〉大嘗祭の日に

あの日、いつもは下りていかない浜の入口で、
自転車が急に止まった。久高島、朝の7時すぎ。
なぜブレーキをかけたかはよく分からない。
辰(東東南)に坐す龍神から呼び止められたか?

 イシキ浜から徒歩でもすぐのタチ浜。後日、
 那覇で語り部に「タチ浜は、辰(たつ)浜では?」
 と言われて、初めてそうかもしれないと思う。

古来の秘祭・イザイホーの祭祀場だった
久高殿の庭から見て、タチ浜は辰の方向にあたる。

祭祀場は御殿庭(ウドゥンミャー)と呼ばれる。
「王様の庭」という意味だが、その御庭では、
「辰浜」から昇る冬至の朝日を崇めることになる。
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思えば、琉球のイザイホーも、天皇の大嘗祭も、
太陽の復活する冬至(旧暦)の日に始まった。
(詳しくはブログ「イザイホーと天皇の祭り」を)
子月の2番目の卯日…満月の日の夕刻に。
 令和の大嘗祭も11月14日(今は新暦)に始まる。


ところで、
 久高島から首里まで繋がる「龍神の通り道」 
には、沖縄神社(首里当蔵町)も鎮座している。

首里城の龍譚池から東へ歩き、20分で着いた。
沖縄神社庁に属する11社のうちの1社。
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歴史的に言えば、明治政府による
廃藩置県(琉球処分)でできたヤマトの神社だ。

大正11(1922)年、沖縄神社創立奉賛会が設立。
大正13(1924)年には、首里城正殿を取り壊し
 沖縄神社を建立する計画が進行していたという。

廃藩置県以来、首里城正殿に鎮座していたらしい。
↓戦前の写真では、龍柱の前に一対の石燈籠が立ち、
賽銭箱や、手水舎らしきものもあったのが分かる。
天皇崇拝の時代、ご祭神は皇祖神・天照大御神か。

「おばあさんが参拝している写真を見たことがある」
 と語り部は言うが、その写真は見つからなかった。
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大正13年、首里城を神社として建て替える計画
を知った鎌倉芳太郎氏と伊東忠太氏らの尽力で、
古社寺保存法に基づき国宝として残されたが、
 名義は首里城でなく、沖縄神社だったようだ。

やがて、太平洋戦争終戦。首里城は焼失した。
沖縄神社が有志によってここ弁之嶽に再建された
のは、昭和44(1969)年のことだった。


拝所へ登る石段の下に、石鳥居があったようだ。
 折れたままだが、龍巻きにでも飛ばされたのか?
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朱に塗られた拝所の扉には鍵が掛かっていた。
中には王の数だけの石碑と香炉が並んでいる。
神社でなく、沖縄の拝所の様式に戻っている。

左下に、令和天皇即位礼の案内がある以外は。
「ご自由にお取りください」と書いてある。
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拝殿(本殿)の壁に歴代・琉球王の名が並ぶ。
上部には「琉球国王」と。そして左から、
尚圓王、察度王、舜天王、英祖王、尚思紹王。


石版に刻まれた琉球王の順番が違い、また
異なる王統の琉球王を合祀するのも珍しいかと
 思うが、ともかく祖先王を崇める神壇である。
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 琉球歴代王を祀る沖縄神社は辰(龍神)を向く。
それはアマミキヨが造ったと神話に残る、琉球
  七御嶽のうち五御嶽のある東方(あがりかた)。

  その東方に坐す龍神を通して、大嘗祭の日に、
  ヤマトの原郷・琉球の永遠の弥栄をただ祈る…。
 




by utoutou | 2019-11-14 09:34 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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