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首里森の御嶽は残った〈5〉安谷川御嶽

首里森御嶽をはじめ、首里城には十御嶽(とたき)
あるというが、園比屋武御嶽以外には近づけない。
それならというわけではないが、首里城の北、
龍譚池からすぐの安谷川御嶽(那覇市首里当蔵町)
を訪ねてみたいという気に、最終日にふとなった。

「あだんがーぬうたき」と読む。左側の石碑には、
「阿丹川御嶽 一九五九年」と刻まれているが、
そんなふうに表記する時代もあったのだろうか…。


龍譚通りから、旧県立図書館の跡地横を
モノレールの儀保駅方向に降りていく道の右手。
アーチ型の石門の上中央に火炎宝珠を乗せている。
火炎宝珠は、首里森御嶽、園比屋武御嶽など、
首里城内の主要な御嶽の石門にあしらわれている。
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その火炎宝珠を、奥に進んで御嶽内から見上げる。
一見お供え餅のようだが、天辺は火炎を象っている。
王府時代は王族士族のお屋敷街だった。いまも住宅街。
隣接する保育園から、昼食時間のご挨拶が聞こえた。
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【安谷川御嶽】
王府の高級神女・首里大阿母志良礼(しゅりおおあむしられ)
の司る御嶽だったと、「琉球国由来記」(1713)
に記されている、などの解説があった。
大阿母志良礼の御嶽=大いなる母の治める御嶽、か。
聞得大君を頂点とする神女組織のトップスリーの一人だ。
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東側の奥100mほどのところに洞穴(ガマ)がある。
突き当たりまでの地下はガマらしいが、詳細は後日…。
左の石標には、「那覇市教育委員会」とある。
首里森の御嶽は残った〈5〉安谷川御嶽_a0300530_06024130.jpg





道路の対面から、御嶽の遠景を撮ろうとして道を渡るとき、
北(儀保)方面からブワンッと強風が吹き上がってきた。
「ここは産鉄地か?」と、すぐさま思ったが、妄想だったか。
「風と火と水」は、古代産鉄地の条件。ヤマトの各地で
似た地形の産鉄遺跡を見たが、首里はどうだったのだろう?
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モノレール儀保駅まで歩いて10分ほどだった。
首里城と浦添城を繋ぐ「西海道(さいかいどう)」の一部。
「尚寧王(しょうねいおう)の道」とも呼ばれる。
琉球第二王朝七代・尚寧王(1564〜1620年)が整備した。

尚寧王は浦添尚家の出身。そして、歴代王で唯一、
王族の眠る・玉稜(たまうどぅん)に葬られなかった王。

そして、もしかすると、歴代王のなかで、もっとも
首里森御嶽に縁の深い王ではなかったかと思うのだ。


by utoutou | 2019-11-23 18:11 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)
Commented at 2019-11-27 19:07 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2019-12-01 14:02
> さいとう よしみさん
調べた点と点が繋がって線になっていくという体験は楽しいですね。それから例えば、無造作に自分が書いているブログが、後の発見のきっかけになったり…。いま書いている首里城のカテゴリーを、六甲山のタイトルの流れで、つい「瀬織津姫」としてしまっていたのですが、その意味がそろそろ分かりかけてきまして(笑)、ささやかな刺激になっています。
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