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首里森の御嶽は残った〈6〉悲劇の琉球王

安谷川御嶽(那覇市首里大中)奥の洞穴(ガマ)。
 おそらく本来の御嶽の威部(中心)はこちらと思う。
 地下に進むと、祭壇に立派な石香炉が並んでいた。
 斎場御嶽などの御嶽に見る香炉の配置と似ている。

 古の村ガー(川泉)の神が、王府時代になると、
  王族の守護神として崇められたということか…。 
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拝所で振り向くと、東から(?)光が差し込む。
この後に訪れる予定の、弁が嶽御嶽をふと思う。
御嶽が霊的に繋がっている、かもしれない…。
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さて、
安谷川御嶽のある道、安谷川坂(あだにがーびら)
は、琉球第二尚氏王朝第七代・尚寧王が整備した
西海道(せいかいどう)の一部ということで、
尚寧王の数奇な運命を思わずにはいられない。

王家には首里王家と浦添尚家とがあり、尚寧王は
後者の出身と言われる。その初代は第二琉球王朝
 初代・尚円王の弟である尚宣威(しょうせんい)。

尚円王が没した後、2代目の王として即位するも、
尚円王妃・宇喜也嘉(おぎやか)の陰謀により 
半年で王位を追われ、越来(ごえく)に隠遁した。

3代目に就いたのが、13歳の尚真王だった。
尚真はやがて尚宣威の娘を妃に迎えるが、
その長子・尚維衡(しょういこう)も廃嫡され、
浦添城に隠遁して浦添尚家(小禄御殿)の元祖に。

その4世ながら、琉球王に即位したのが尚寧王。
浦添尚家からの、いわば「王位復活」を果たした。

そして、首里城と故郷の浦添城を結ぶ西海道を補修
したが、在位中の1609年、それは皮肉にも浦添経由
 で首里陥落を狙った「薩摩侵攻」の道となってしまう。


こちらは、
王が首里城から浦添へ向かうときに使ったらしい
久慶門(写真右)。首里城火災から数日後、ここ
 弁財天橋からは立入禁止。北壁にガードマンがいた。
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ところで、尚宣威王と尚維衡は、尚真王の母后
・宇喜也嘉の血脈にないため王位に就けなかったと
  いうから、その女帝ぶりには凄まじいものがある。

いっぽう、宇喜也嘉の血を引かない浦添尚家から
  王位に返り咲いた尚寧王の「帝王の器」もまた…。

「おもろそうし」尚寧王19(1607)年の項には、
「首里杜と真玉杜に神(※琉球の守護神・君手摩)が
  降りた」との歌がある。薩摩侵攻はその2年後。

  宇喜成嘉の死から百年後のことだが、呪われたのか?



by utoutou | 2019-11-28 15:53 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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