![]() 拝所で振り向くと、東から(?)光が差し込む。 この後に訪れる予定の、弁が嶽御嶽をふと思う。 御嶽が霊的に繋がっている、かもしれない…。 ![]() さて、 安谷川御嶽のある道、安谷川坂(あだにがーびら) は、琉球第二尚氏王朝第七代・尚寧王が整備した 西海道(せいかいどう)の一部ということで、 尚寧王の数奇な運命を思わずにはいられない。 王家には首里王家と浦添尚家とがあり、尚寧王は 後者の出身と言われる。その初代は第二琉球王朝 初代・尚円王の弟である尚宣威(しょうせんい)。 尚円王が没した後、2代目の王として即位するも、 尚円王妃・宇喜也嘉(おぎやか)の陰謀により 半年で王位を追われ、越来(ごえく)に隠遁した。 3代目に就いたのが、13歳の尚真王だった。 尚真はやがて尚宣威の娘を妃に迎えるが、 その長子・尚維衡(しょういこう)も廃嫡され、 浦添城に隠遁して浦添尚家(小禄御殿)の元祖に。 その4世ながら、琉球王に即位したのが尚寧王。 浦添尚家からの、いわば「王位復活」を果たした。 そして、首里城と故郷の浦添城を結ぶ西海道を補修 したが、在位中の1609年、それは皮肉にも浦添経由 で首里陥落を狙った「薩摩侵攻」の道となってしまう。 こちらは、 王が首里城から浦添へ向かうときに使ったらしい 久慶門(写真右)。首里城火災から数日後、ここ 弁財天橋からは立入禁止。北壁にガードマンがいた。 ![]() ところで、尚宣威王と尚維衡は、尚真王の母后 ・宇喜也嘉の血脈にないため王位に就けなかったと いうから、その女帝ぶりには凄まじいものがある。 いっぽう、宇喜也嘉の血を引かない浦添尚家から 王位に返り咲いた尚寧王の「帝王の器」もまた…。 「おもろそうし」尚寧王19(1607)年の項には、 「首里杜と真玉杜に神(※琉球の守護神・君手摩)が 降りた」との歌がある。薩摩侵攻はその2年後。 宇喜成嘉の死から百年後のことだが、呪われたのか?
by utoutou
| 2019-11-28 15:53
| 瀬織津姫
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