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首里森の御嶽は残った〈10〉首里に高楼を建てた王

首里城を築城したのは、第一尚氏王朝の初代
・尚巴志王(即位1429年)か、はたまたその前王統
の初代である察度王(即位1350〜95年)か。定説は
 前者だが、今後の調査次第でどうなるか分からない?


↓ 首里城京の内跡 出土品展の図録
('18年、県立埋蔵文化センター)に並ぶ遺物の
うち、世界的にも珍しい紅釉水注(上段中央)や、
大合子(下段中央)は、中国・元(1271〜1368年)
 時代の末期のものという。ときの琉球王は察度である。
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また1392年、高楼(高世層理殿、たかよさうり)
が建造されたと、『琉球国由来記』は記している。
建造は察度王によるか、具体名の記述はないものの、
近年、やはり京の内からは、その遺構が出てきた。
(首里城京の内跡出土品展の図録('18年)より)。
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一説に高楼は数丈(7〜9m)の高さで北向きだと。
どんな目的で建てた建物だったのだろうか。

察度王は高楼に登り、こう言ったという説もある。
「誰も自分に危害を与えるものなどあるまい」と。
(与並岳生・著『察度王』より)
高楼が物見台なら、防衛グスクを兼ねた王城なのか?

確かに、
京の内(首里城の南地区)の南縁は城内の最高所で、
攻撃される恐れのない自然の要塞だったはずだし、
そもそも首里丘陵の南側は、いまも急坂が続く地形。
10mも低い北側を防衛する高楼は、必然だったか。

沖縄本島のグスクは13世紀末頃から築城され始め、
14世紀末から15世紀中頃に完成したという。
首里城も歴代の王が築造を重ねて完成したのだろう。
逆に、首里城を最初に築城したのはやはり察度王では?

首里丘陵の地図に、察度王のいた痕跡…というか
守備範囲を図示すると、かなり広いことが分かる。


↓ 航空写真のうちの、
3ケ所に黄色丸を入れて加工した(写真上が北)。

まず城内。地図の中央下の赤い四角が首里城の御庭、
その左(西)の下之御庭に(13世紀)高楼が建った。

そこから右(東)へ目を転じると、東の城壁外に、
察度が守護神を祀ったという国中城御嶽がある。

そして、写真いちばん下(南)にある黄色点が、
察度王の次男・崎山里主の住居とされる崎山御嶽
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とすると、高楼が北向きだった理由が、はたして
単なる首里の防衛のためか? という疑問が湧く…。

それまで察度王が居城としていた浦添から南下して
首里へ遷都し、晩年に高楼を建てたその理由とは…。

高楼の地・首里の稜線(東西軸)より南部こそが、
北方の脅威から防衛したかった一帯ではないか。

崎山御嶽のある首里崎山町に隣接する首里金城
(かなぐすく)の村には、「鬼餅(むーちー)伝説」
が残っていた。妹のホト(下の口)が鉄を食べる話。

ホト(女陰)は、以前にも書いた産鉄の「火床」の
こと。伝説の時代は不明だが、首里の南で鍛治が盛ん
だったなら、察度王統の富の源泉もそこにあったか?


by utoutou | 2019-12-15 20:56 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)
Commented at 2019-12-22 11:47 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2019-12-28 07:50
> 東鍛冶屋さん
こんにちは。先日、金城を歩きました。とても急な石の坂道、にもかかわらず大アカギのある内金城の周辺は広い平地となっていて、周囲の巨岩には洞穴も。ここにはやはりタタラがあったかもしれないと、古の姿を想像しました。鬼餅伝説の舞台そのもののような急な崖もあったので、地形もほとんど変わっていないのではないでしょうか。また、歩いてみると、金城と、14世紀から城下町があったという現在の首里杜館あたりと、王朝時代に金物を扱った御細工所跡のある綾門大道とは、まったく地続きで隣接していると感じました。もちろん、首里城南東の崎山も。また面白いことに、城内の京の内の西端からも炉跡が発掘されていますから、そのあたりも一帯となっていたかもしれませんね。
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