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首里森の御嶽は残った〈12〉首里城を歩く

察度王が首里にグスクを構える前に守護神を
祀ったという国中城御嶽から、北壁沿いに西へ。
そして、歓會門から利用可能になった城内に入る。

首里城復興モデルコース」がいくつも設定されて
 おり、観光客が各々お好みのコースを楽しむなか、
聖域空間・京の内へのオリジナルコースを進む。
 瑞泉門→漏刻門→広福門を通り、下之御庭に出た。


骨組みが剥き出しになった奉神門の屋根。
あの朝、ニュースで見た火炎を思い出してしまう。
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首里森御嶽(写真右、すいむいうたき)のある
下之御庭の正殿(東)側は、未だ立ち入り禁止区域。
逆に首里森御嶽が、それほど御庭の真ん中に存在
していたことを改めて知る。やはり首里城のヘソだ。


昨日27日、首里城再建有識者会議(←ニュース)の
初会合が始まったが、私が首里城へ行ったその5日前
にも、視察団らしき人(背広)を、かりゆしウェアの
人が案内する姿や、奉神門の横で、正殿の図面を手に
 打ち合わせするヘルメット姿の人たちにも遭遇した。
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城内南西、京の内の威部(いび)首里森御嶽へ
 の遥拝所。その名も首里森御嶽という(写真右)。
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京の内MAP。赤矢印(私の加工)のように進んだ。
左の赤丸(加工)が首里森御嶽。右の赤丸(加工)
周辺から、首里城が王城となる以前(14世紀後半)
に察度王が建てたとされる高楼(高世層理殿)の
遺構(礎石)や瓦やグスク土器が発掘されている。
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奉神門の横では、多くの人が立ち止まり渋滞。
屋根が焼け焦げた南殿・番所の被害も甚大。
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京の内の首里森御嶽(手前)と思われる石囲い。
那覇を一望できる南のアザナ(物見台)に至近。
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首里森御嶽の中央にはアコウが立っている。
赤榕(あこう)の別名は、ウスクガジュマル。
琉球石灰岩地に自生するという特徴があるそうだ。
クロツグなども所狭しという感じで繁っている。
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焼失した首里城は、1715年(13代・尚敬王時代)
に再建された首里城をモデルに復元されたもの
で、それ以前の首里は、それこそ遺構のように
表面からは、ほとんど窺い知ることはできない。

琉球王国時代には王宮内の聖域だった京の内も、
14世紀中葉に興った察度王統の時代には、
グスク(城塞)の中枢部だったかもしれない。

ちなみに察度には「天女の子」という伝説がある。
ヤマトの商船から買った鉄塊で農具を作って人望
を得、王位に就いたカニマン(鍛冶屋)だった。









by utoutou | 2019-12-28 12:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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