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首里森の御嶽は残った〈13〉首里の縄文時代

首里森御嶽は、首里城で最高所である南のアザナ
の最寄りに位置。現在は展望台(写真左)もある。
すぐ下に人が擦れ違えるほどの歩道、そして首里森御嶽。
写真正面の奥に赤く写っているのが広福門。その
手前に下之御庭の首里森御嶽(遥拝所)が見える。
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振り返って、
展望台から見えるのは首里城の南側だ。真下は瀟洒
 なマンションが並ぶ首里金城、左が崎山といった住宅街
 が続くが、このエリアには首里で最古の歴史がある。
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発掘調査によれば、首里城外郭の南側周辺から
(城内の下之御庭からも)縄文時代後期の土器が出土。
それらは、鹿児島県徳之島の面縄東洞式(龍の網目)
や、奄美大島の嘉徳式。つまりこのエリア周辺には、
 南西諸島や奄美諸島と交流ある人々が暮らしていた。

次に、時代くだって11世紀〜12世紀。
首里城の南に位置する織名シーマ遺跡からは
徳之島のカムィ焼きの須恵器が出土しており、
グスク時代初期の遺跡と考えられている。

また、首里城のすぐ南にある崎山御嶽遺跡や
御茶屋御殿跡からは、13世紀後半〜14世紀の
大和系瓦が出土している。

いっぽう首里城の西、天界寺跡には、寺の造営前
の14世紀後半に、大規模な集落が展開していた。

この天界寺跡は、現在の首里杜館の近くにある
首里城公園管理センターの場所にあたるが、
そもそも天界寺の建立は、15世紀後半、第一尚氏
の第6代国王・尚泰久王によるものという。

つまり、その百年前、14世紀後半に大規模な
集落があったということは、察度王が築いた
グスクの城下町だった可能性が高いのでは…?

ちなみに、察度王が京の内に建てたとされる高楼
は、その天界寺の火災(1576年)で移焼したと
 いう。高楼と寺は、それほど近い距離にあった。


さて、京の内の見学コース。首里森御嶽から進むと、
真玉森御嶽がある、はずだったが…標識はなく、
行く手には立派に石のアーチが見えるだけである。
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振り返ると首里森御嶽(これも標識はない)横
 の展望台が見える。歩道は南の城壁とほぼ平行。
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何十歩か進むと、例の石のアーチ前に着いた。
下調べによると、このあたりが真玉森御嶽だが…。
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石のアーチを出ると下りの石階段がある。
下から見上げると、かなり急な段差だが、実は
真玉森御嶽は、この石階段の下にあったのである。
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京の内を含む首里城は、1709年に3回目の火事
で焼失したモデルの復元だが、その当時にはもう、
「アマミキヨが創った七御嶽」のひとつと琉球神話
 の伝える真玉森御嶽は、忘れ去られていたのか?
  それとも、封印されてしまっていたのだろうか…?





by utoutou | 2019-12-30 19:29 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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