首里森御嶽は、首里城で最高所である南のアザナ の最寄りに位置。現在は展望台(写真左)もある。 すぐ下に人が擦れ違えるほどの歩道、そして首里森御嶽。 写真正面の奥に赤く写っているのが広福門。その 手前に下之御庭の首里森御嶽(遥拝所)が見える。 ![]() 振り返って、 展望台から見えるのは首里城の南側だ。真下は瀟洒 なマンションが並ぶ首里金城、左が崎山といった住宅街 が続くが、このエリアには首里で最古の歴史がある。 ![]() 発掘調査によれば、首里城外郭の南側周辺から (城内の下之御庭からも)縄文時代後期の土器が出土。 それらは、鹿児島県徳之島の面縄東洞式(龍の網目) や、奄美大島の嘉徳式。つまりこのエリア周辺には、 南西諸島や奄美諸島と交流ある人々が暮らしていた。 次に、時代くだって11世紀〜12世紀。 首里城の南に位置する織名シーマ遺跡からは 徳之島のカムィ焼きの須恵器が出土しており、 グスク時代初期の遺跡と考えられている。 また、首里城のすぐ南にある崎山御嶽遺跡や 御茶屋御殿跡からは、13世紀後半〜14世紀の 大和系瓦が出土している。 いっぽう首里城の西、天界寺跡には、寺の造営前 の14世紀後半に、大規模な集落が展開していた。 この天界寺跡は、現在の首里杜館の近くにある 首里城公園管理センターの場所にあたるが、 そもそも天界寺の建立は、15世紀後半、第一尚氏 の第6代国王・尚泰久王によるものという。 つまり、その百年前、14世紀後半に大規模な 集落があったということは、察度王が築いた グスクの城下町だった可能性が高いのでは…? ちなみに、察度王が京の内に建てたとされる高楼 は、その天界寺の火災(1576年)で移焼したと いう。高楼と寺は、それほど近い距離にあった。 さて、京の内の見学コース。首里森御嶽から進むと、 真玉森御嶽がある、はずだったが…標識はなく、 行く手には立派に石のアーチが見えるだけである。 ![]() 振り返ると首里森御嶽(これも標識はない)横 の展望台が見える。歩道は南の城壁とほぼ平行。 ![]() 何十歩か進むと、例の石のアーチ前に着いた。 下調べによると、このあたりが真玉森御嶽だが…。 ![]() 石のアーチを出ると下りの石階段がある。 下から見上げると、かなり急な段差だが、実は 真玉森御嶽は、この石階段の下にあったのである。 ![]() 京の内を含む首里城は、1709年に3回目の火事 で焼失したモデルの復元だが、その当時にはもう、 「アマミキヨが創った七御嶽」のひとつと琉球神話 の伝える真玉森御嶽は、忘れ去られていたのか? それとも、封印されてしまっていたのだろうか…?
by utoutou
| 2019-12-30 19:29
| 瀬織津姫
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