年明け初回の本日より、新シリーズを始めます。 昨年まで、本土各地の聖地や神社を訪ね歩き、 アマミキヨが北上したという仮説に立って痕跡を 探ってきましたが、今年はまず原点に戻ります。 2巡目の追跡アマミキヨは、火の神(ひぬかん)のお話から。 ★★★ 年末のあるとき、語り部がアマミキヨに まつわる大切なことを思い出させてくれた。 アマミキヨのつくった聖なる七御嶽には、 それぞれに火の神(ひぬかん)…「太陽・月・星」 を祀る磐座があり、さらにそれら七御嶽は、 何かしらのレイラインで繋がっているのだという…。 何年か前に聞いたのだったが、失念していた。 琉球第一の御嶽である斎場御嶽と、 首里城の首里森御嶽・真玉森御嶽も、ゆえに冬至 の日の出ラインで繋がっているという奇跡的な関係。 「ということは、京の内には本来もう1ヶ所、 星を祀る御嶽があったはずだと思います」とも。 京の内で太陽・月・星を祀る火の神は、 御三物(おみつもん、おみちもん)とも呼ばれた。 そして、その磐座は斎場御嶽の三庫理にもあった。 (ちなみに、斎場御嶽の奥にそびえるナーワンダーグスク の火の神についてのブログは、こちら ) 「数十年前までは三庫理の上に登ることができた。 火の神を祀るからこそ、首里と一対だったわけです」 斎場御嶽・三庫理。珍しく無人だったときの1枚。 三庫理の中、石香炉の前から磐庫を見上げる。 いつからか、このアングルの1枚を必ず撮るようになった。 ほとんどの人は反対側で久高島を遥拝しているが、 聞得大君や神女の神女が礼拝したのは、こちらという。 王朝時代の金の勾玉が出たのも、この磐座の下だった。 さて、では、最初に首里の火の神こと首里森御嶽と 真玉森御嶽を祀り崇めたのは、いったい誰だったのか? つまり嶽々のレイラインを繋ぎ、祈った古代人とは? 年末最後のブログで、縄文後期の織名原遺跡に ついて書いた後、語り部は言ったものだった。 「その頃、織名にいたのは首里天孫氏ではないか…」 後に「首里天孫氏」と呼ばれることになる人々は、 伝承では、アマミキヨの末裔となっている。 その始祖神が降臨してから1万7千802年続いたと 伝える琉球王朝の歴史を、いま非常にリアルに感じる。 琉球国の迎賓館だった織名宮のある織名は、 首里城の南から金城石畳道を下りて数㎞の先に位置する。 そこから首里の二大御嶽は、どう見えていたのだろう?
by utoutou
| 2020-01-08 15:09
| 天孫氏
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