京都最古の社、日向大神宮(山科区日ノ岡)に参った。 「京都のお伊勢さん」と呼ばれるが、参拝客はまばら。 三条通り沿いの鳥居から約10分。非密な参道を登る。 ![]() 京都駅から地下鉄東西線に乗り蹴上(けあげ)駅下車。 電車は混んでおり、列を成す降車客と共に路上へ出た。 が、地図で、日向大神宮は人の流れと逆にあると知る。 赤丸(加工)が日岡大神宮。反対は東山や三条への道。 (※このとき、地図上の方角には気づかなかった) ![]() 日岡大神宮は、いわば「海神の総本社」であり、 「龍の都」。そう考える理由は縁起にある。 境内へ登る石段の下に「由緒略記」が立っていた。 【ご由緒】 当神宮は四八〇年代、第二三代顕宗(けんぞう)天皇 の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建 されたと伝えられています。 飛鳥時代に天智天皇は、圭田をご寄進され、鎮座の山 を「日山(かみやま)」(後に「ひやま」「ひのみ やま」と呼ばれる)と名づけられました。(後略) ![]() 由緒の「筑紫日向の高千穂の峯」は志賀島にある。 かつて志賀海神社に参ったとき、日向と呼ぶ神蹟は 南九州ではなく、「筑紫にある」との伝承を知った。 (詳しくは、「秘められた北斗七星」に) つまり、日岡大神宮も龍の都、海神の総本社となる。 海神族の代表格・安曇、和邇、日下部(日置)を アマミキヨと同族と見る語り部は、実はかつて 何度も、「日向大神宮」とその社名を語っていた。 そしていま、おそらく6世紀半ばに、 王権によって三輪山から追いやられた大物主神と その子・日向御子神(ひむかのこがみ)の一族 の行方が話題に上るようになって以降、また 改めて、「日向大神宮」の名を口にするのだった。 「一族は日向大神宮の地から六甲、播磨と西へ逃げた。 近江、飛騨など、北東の方向へ逃げた一派もいたかと。 行く先はすべて先祖がいた土地だったように視えます」 さて、その境内。 石段を上がると、すぐに神明造の外宮本殿に出る。 祭神は、天津彦火瓊々杵尊(ニニギノミコト) 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ) ![]() さらに境内を真っ直ぐに登ると、内宮一廓がある。 ふと外宮と鳥居の方向を振り返ると、目に紅葉。 ![]() 顕宗天皇がなぜこの日向大神宮を創祀したのか。 あれこれ考えると、「皇子時代の逃亡」に行き着く。 詳しくは、過去ログ「丹後のカヤノヒメ)に書いた が、以下、一部コピペ。 〜 455年、後の雄略天皇に殺された市辺押磐皇子 の遺児、億計(おけ)皇子(後の仁賢天皇)と、 弘計(おけ)皇子(後の顕宗天皇)は、臣下の 日下部蓮使主と共に丹波国与謝郡へ逃亡して潜伏、 難を逃れたと言われているが、転々とした逃亡先は その先のどの土地でも、日下部氏の勢力下にあった 〜 そして480年代、 復権して顕宗天皇となった皇子 は、この地に日向大神宮を創祀した。つまり、 日下部氏ら海神族の祖霊・龍神を勧請したのだった。 では、龍神はこの日山のどこに祀られたのだろうか? こちら内宮。外宮と同じく神明造の本殿。 祭神は、天照大御神(アマテラスオオミカミ) 多紀理比売命(タギリヒメノミコト) 市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト) 多岐都比売命(タギツヒメミコト) ![]()
by utoutou
| 2020-11-30 14:54
| 天孫氏
|
Trackback
|
Comments(0)
|
![]() by utoutou
カテゴリ
全体 ミントングスク 久高島 イザイホー 玉城 語り部 城(ぐすく) 天孫氏 御嶽 スサノオ 出雲 神社 琉球の神々 伊勢 洞穴(ガマ) 龍蛇神 ヤマトタケル お知らせ 天女伝説 斎場御嶽 ナーワンダーグスク 石垣島 九頭龍 瀬織津姫 琉球の玉 舜天 琉球王 グスク・御嶽 最終章 第二章 縄文アマミキヨ 未分類 最新の記事
以前の記事
2026年 05月 2026年 02月 2026年 01月 2025年 12月 2025年 11月 2025年 10月 2025年 09月 2025年 08月 2025年 07月 2025年 06月 more... 画像一覧
最新のコメント
最新のトラックバック
検索
記事ランキング
ブログパーツ
フォロー中のブログ
ブログジャンル
外部リンク
ファン
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||