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天孫氏は火の一族〈59〉日向大神宮(ひむかだいじんぐう)

京都最古の社、日向大神宮(山科区日ノ岡)に参った。
「京都のお伊勢さん」と呼ばれるが、参拝客はまばら。
 三条通り沿いの鳥居から約10分。非密な参道を登る。
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京都駅から地下鉄東西線に乗り蹴上(けあげ)駅下車。
電車は混んでおり、列を成す降車客と共に路上へ出た。
が、地図で、日向大神宮は人の流れと逆にあると知る。
赤丸(加工)が日岡大神宮。反対は東山や三条への道。
(※このとき、地図上の方角には気づかなかった)
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日岡大神宮は、いわば「海神の総本社」であり、
「龍の都」。そう考える理由は縁起にある。
境内へ登る石段の下に「由緒略記」が立っていた。

【ご由緒】
当神宮は四八〇年代、第二三代顕宗(けんぞう)天皇
の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建
されたと伝えられています。
飛鳥時代に天智天皇は、圭田をご寄進され、鎮座の山
を「日山(かみやま)」(後に「ひやま」「ひのみ
  やま」と呼ばれる)と名づけられました。(後略)  
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由緒の「筑紫日向の高千穂の峯」は志賀島にある。
かつて志賀海神社に参ったとき、日向と呼ぶ神蹟は
南九州ではなく、「筑紫にある」との伝承を知った。
(詳しくは、「秘められた北斗七星」に)
つまり、日岡大神宮も龍の都、海神の総本社となる。


海神族の代表格・安曇、和邇、日下部(日置)を
アマミキヨと同族と見る語り部は、実はかつて
 何度も、「日向大神宮」とその社名を語っていた。

そしていま、おそらく6世紀半ばに、
王権によって三輪山から追いやられた大物主神と
その子・日向御子神(ひむかのこがみ)の一族
の行方が話題に上るようになって以降、また
 改めて、「日向大神宮」の名を口にするのだった。

「一族は日向大神宮の地から六甲、播磨と西へ逃げた。
  近江、飛騨など、北東の方向へ逃げた一派もいたかと。
  行く先はすべて先祖がいた土地だったように視えます」
  

さて、その境内。
石段を上がると、すぐに神明造の外宮本殿に出る。
祭神は、天津彦火瓊々杵尊(ニニギノミコト)
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
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さらに境内を真っ直ぐに登ると、内宮一廓がある。
ふと外宮と鳥居の方向を振り返ると、目に紅葉。
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顕宗天皇がなぜこの日向大神宮を創祀したのか。
 あれこれ考えると、「皇子時代の逃亡」に行き着く。
詳しくは、過去ログ「丹後のカヤノヒメ)に書いた
が、以下、一部コピペ。

〜 455年、後の雄略天皇に殺された市辺押磐皇子
の遺児、億計(おけ)皇子(後の仁賢天皇)と、
弘計(おけ)皇子(後の顕宗天皇)は、臣下の
日下部蓮使主と共に丹波国与謝郡へ逃亡して潜伏、
難を逃れたと言われているが、転々とした逃亡先は
その先のどの土地でも、日下部氏の勢力下にあった 〜

そして480年代、 復権して顕宗天皇となった皇子
は、この地に日向大神宮を創祀した。つまり、
日下部氏ら海神族の祖霊・龍神を勧請したのだった。
では、龍神はこの日山のどこに祀られたのだろうか?


こちら内宮。外宮と同じく神明造の本殿。
祭神は、天照大御神(アマテラスオオミカミ)
多紀理比売命(タギリヒメノミコト)
市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)
多岐都比売命(タギツヒメミコト)
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by utoutou | 2020-11-30 14:54 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)
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