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琉球国初代王・舜天〈12〉阿多忠景も隠された

 舜天が琉球中山王となった1187年、薩摩では後に
鎌倉幕府の御家人となる惟宗忠久が、源頼朝から
 薩摩日守守護および十二島地頭に任じられた。
  島津氏という名乗りはこのときに始まったという。

 舜天即位と島津忠久の薩摩補任が、共に1187年。
これは偶然の一致か、はたまた『中山世鑑』に
「為朝の琉球渡り」を書いた羽地朝秀の創作か…?

 研究史で多数を占める「為朝は来なかった派」は、
偶然の一致などあるわけがない、琉球侵攻した薩摩
 への忖度で、為朝と舜天の物語は作られたのだという。

いっぽう「為朝は来た派」には、『保元物語』に
為朝の義父は阿多郡司・阿多忠景とあることから、
ともに琉球に渡ってきたのだという、見方がある。

江戸時代初期に玄蘇長老が著した『八島記』は、
為朝は琉球を去るとき、家来である阿多忠景に
尊敦の護衛と教育を託した…とリアルに記した。

すると、次の疑問が湧いてくる。為朝と一緒に
阿多忠景は来たのか、来なかったのか、どっちだ?

語り部は、以前書いたように「忠景も来た派」だ。
舜天の母(大里按司の妹)は阿多君だと視ている。
大里按司の裏に忠景がいるか、ズバリその人だと。

私も同じく、「忠景も来た派」だ。
薩摩平氏だった阿多忠景は、太宰府を通じて私的
な日宋貿易により繁栄したが、その本拠地は阿多
 の万野瀬川流域の持躰松(もったいまつ)遺跡
 その遺跡で宋から輸入された陶磁器が大量出土した。


道の駅きんぽう木花館関連のサイトから拝借した
木花開耶姫像。背後に映るのは金峰山(636m)
で、阿多忠景の居館は麓の小薗遺跡にあったという。
※南さつま市・金峰町の史跡マップはこちら。
琉球国初代王・舜天〈12〉阿多忠景も隠された_a0300530_17101341.png







そんな忠景は、しかし、太宰府を掌握して日宋貿易
 を独占したい平清盛にとって目障りな存在だった。
 遡って1160年、忠景は追討され貴界島(硫黄島)
 逃亡した。が、迎え撃った形跡はないのだという。

消息を絶った、ということはお咎めのない琉球へ
と、さらなる逃亡を企てたのではないかというのが、
 私が「忠景も琉球に来ただろう」と考える理由だ。

羽地朝秀がその名を隠したのは、阿多氏と、
その地盤を継いだ同族の鮫島氏が、島津忠久が地頭
として着任する1187年以前の領主だったからでは?
 舜天物語から阿多氏を消すように隠すこともまた、
薩摩島津氏への最大級の忖度だったと思うのだ。


『三国名勝図会』(1905年刊行)↓は「高橋殿の
御代ならば金子の升で米計る」という歌を掲載。
そんな富豪の「高橋殿」とは、平安末期に私的貿易
 に成功して南薩摩を支配した阿多忠景のことらしい。
琉球国初代王・舜天〈12〉阿多忠景も隠された_a0300530_13292015.png





ところで、
舜天の墓は島添大里グスク(南城市)の南側、
西原集落のイームイ御嶽にある。墓石の上に宝珠
を戴いているのが特徴だが、それはなぜだろう?
琉球国初代王・舜天〈12〉阿多忠景も隠された_a0300530_18083233.jpg


by utoutou | 2022-03-28 19:06 | 琉球王 | Trackback | Comments(2)
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Commented by utoutou at 2022-03-30 15:42
> 2924_a31さん
いつもご訪問、ありがとうございます。こちらが、あのときカメラに収まらなかったお墓の右側です。/Users/user/Desktop/舜天の墓2.jpg
Commented by utoutou at 2022-03-30 15:44
写真を反映できず失礼しました。石灯籠は向かって右手にあります。
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