舜天ソントンと源為朝について、また為朝の舅と される阿多忠景についても何度かブログに書いたが、 謎だったあの銅鏡について、ストンと腑に落ちた。 平安時代末期、薩摩国の郡司だった阿多忠景の系図 を遡ってみると、先祖の平季基という人物に至り、 藤原道長との接点がはっきりと見えてきたのである。 戦後、舜天のお墓から出てきたという、平安貴族 NO.1の藤原道長の名入り銅鏡について話が聞きたいと、 南風原自治会館(南城市)を訪れたのは2ヶ月半前。 梅雨入り前というのに、真夏のような日差しのなか、 まずは、のどかな表情の石獅子が立つ集落を歩いた。 ![]() あのときに知ったことのあれこれを書いたが、結局、 摂関・藤原道長(996〜1028年)の名入り銅鏡が いつ誰の手でここに持ち込まれたかは、不明のまま。 あのとき、突っ込んで考えようとしなかったのは、 藤原道長と阿多忠景との間に100年以上のズレがあった から。忠景が薩摩で権力の頂点にいたのは1150年頃だ。 しかし、忠景の先祖ならどうか? と、ふと思った。 調べると、阿多忠景の三代上に、太宰府の役人となった 平季基がいる。季基は弟とともに島津の荒地を開発。 藤原頼通(道長の長男)に寄進していた。それが、 後に日本最大の規模を誇るようになる島津荘の起源。 そもそも島津荘は、藤原摂関家領の荘園だったわけだ。 その壮域は、鎌倉初期、日向・大隅・薩摩にわたって 8千町(東京ドーム1708ヶ分)で日本最大の規模だった。 忠景の曽祖父・季基と藤原家との密接な関係が偲ばれる。 それ以前の時代にも、太宰府経由の私貿易で栄えた 季基は、道長に唐物を寄進していたという話もある。 忠景の系譜は、次のようになるようだ。 平貞時---貞元---季基---兼輔---伊作良道---阿多忠景 良道は薩摩国伊作郷に土着してから、伊作を称した。 忠景は阿多君の姫を娶り、地名にちなみ阿多を称した。 さっそく語り部に電話で連絡する。 「…そんなわけで、藤原道長の銅鏡は、阿多忠景が代々 受け継いだ家宝を、琉球へ運んだ可能性がありますね」 語り部は、いつも通りの平静な声で言った。 「やはり、平氏は島添大里に来ていたんですね」 語り部の見立ては、阿多忠景は大里按司その人か、 大里按司の後ろ盾になった人なのだろうというもの だったので、やはりなんだか腑に落ちた様子である。 ![]() 舜天の墓のデザインを、沖縄ではボーントゥ墓と呼ぶ。 経筒を模した形で、蓋の上に宝珠型の鈕が載っている。 その由来は、「梵筒」なのではないかと考えていた。 藤原道長は1007年、吉野・金峰山(奈良県)の 経塚に、自ら書写した経を経筒に入れて埋納した。 その経筒は国宝、直筆の経は重要文化財になっている。 もしや、墓の中の銅鏡も、国宝級なのかも知れない。 ![]()
by utoutou
| 2022-06-21 13:38
| 琉球王
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