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琉球国初代王・舜天〈37〉隼人は「穴」に住む

西都原古墳群の船形埴輪は、日向から大和地方に移住
した隼人の居住地に坐す阿多比売神社や、同じく吉野川
沿いに坐す二見神社や、あの宇智神社を思い出させる。

 船形埴輪の原型は、中国の長江と言われる。
その長江から来た「鵜飼・焼畑・竹細工・日読み
・産鉄の民」は隼人。大陸から南の島々へ、朝鮮半島へ、
 日向や大和へと、文化文明を繋いだのもまた彼らだろう。
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未踏の地だが、西都原古墳群(博物館サイト)を見て
 いて興味深く、目が釘付けだったのは地下式横穴墓だ。

 同様の墓は百済の都だった扶余あたりにもあり、日向
  と共通。それは「隼人による墓制」という説も根強い。

こちら都城市サイトより拝借した「地下式横穴墓」
 図説。西都原以外の各地にも同構造の横穴墓がある。
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 沖縄県から地下式横穴墓の遺跡は発見されていないが、
隼人(正しくは熊曽於族)はなぜ、地下に葬る墓制を
有していたのかと、以前から、不思議に思っていた。

そんななか、ひょっとして、そういうことか、と合点
 がいったのは、鹿児島の旅で「熊襲の穴」を訪れたとき。
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温泉旅荘の敷地内にあるその洞穴内は、施された
ペインティングで、ポップなアート空間に様変わり
 していたが、本来は深い闇の穴。紛れもなく地中、
 …いや地の底という様相を呈していたに違いない。
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観光地となった「熊襲の穴」は、
穴口から下る前に表にあるスイッチを点ける仕組み。
 最初はそのことに気づかず、ブラックアウトに陥った。
 洞穴内から振り返ると、外の自然光が差し込んでいる。
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南九州の熊襲(隼人)は、穴に住む人々だった。
「熊襲の穴」で、久高島の「穴」の記憶が甦った。

久高島だけでなく、本島や石垣島でも経験したが、
 石灰岩にできた洞穴は入口から「下りて進む」空間。

そのため、今次の大戦まで、幾多の戦時には避難壕
として使われ、悲劇を生んだわけだが、本来、いや
古来、南九州や琉球・南西諸島の人々は海人的信仰に
  よって、「地底の穴」を聖地として崇めていたと思う。

それは「てぃだが穴」と呼ばれた。夕方は西に沈み、
朝には東から昇る太陽の通り道だと考えられていた。
生命の「死と再生」を繰り返す、太陽神の住処とも。

日々新たに昇るのは若い太陽。思えば「若てぃだ」
という、琉球国初代国王・舜天に冠された称号には、
 そんな海洋民族の太陽信仰が隠れているのではないか。

地下式横穴墓の話から、ついつい逸れてしまったが、
久高島「太陽神の祭り」は旧暦8月11日に催される。

百済と日向と久高島は「太陽の船」で繋がっている。

by utoutou | 2022-08-25 14:00 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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