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琉球国初代王・舜天〈44〉黒潮の民のDNA

浦添城の高麗瓦の後も、万国津梁の鐘や、首里城に
ある弁財天堂の経典など、朝鮮王朝と琉球国の交流を
示す遺物は少なくない。「耽羅国だった昔から琉球の
島々との交流が絶えたことはないはず」と、語り部。

 古来、耽羅国と琉球の間に交流・交易があればこそ、
新羅・百済・高麗・李王朝と、属する国が次々に
 変わりはしたが、国家間で発展してきたのだろうと。

琉球の御嶽信仰の源流は耽羅にあるという説がある。
済州島(古の耽羅)には琉球を故郷と思う人がいる。
どちらが先か、というより黒潮文化圏は古来あった。


御嶽についてはまた改めて考えるとして、旅の終わり
第一尚氏王統・第六代の王墓(玉城富里)に参った。
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中央が尚泰久王(1415〜60年、在位7年)。
奥(右)に長男・安次富金橋のお墓がある。
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解説によれば、古い地名は神座原(ウフギシモー)。
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さて、確かめたかったのは ↓この位置間隔である。
墓前(写真左)に向かい、右手奥(写真中央)に
 写る建物はJAおきなわ玉城支店(その距離約60m)。
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一帯は風葬墓の地、その地名は王墓と同じ「神座原」
古墓群と呼ばれた。今春、納骨堂の3体の男性人骨
をDNA鑑定した結果、1体は母系を西欧人由来とする
 15〜16世紀の人と発表されたニュースは記憶に新しい。
(沖縄タイムス記事はこちら。南城市サイトはこちら

Google mapをスクショすると(右上が北)…
尚泰久王のお墓から、国道331号線を挟んで南西に
 JAおきなわ玉城支店とAコープ玉城支店があるが、
そこに神座原古墓群があったという。風葬されて
 いた78体は、1706年に作られた石逗子に移され、
 後に納骨堂(赤丸、現在は再移動)に安置された。
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DNA鑑定した3人の男性のうち、西欧人系が話題
 になったが、他2人は日本琉球由来と朝鮮半島由来。

いま気になるのは、他でもない朝鮮半島系の人物だ。
会見での発表資料によれば、ミトコンドリア分析の
結果、そのハプログループは M7c1a4a だった。
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ハプログループM7c1a4aは、@ゲノミュージアム
などを参考にすると、日本・韓国・中国に分布する
という。日本人に見られるM7cは、中国東北部から
朝鮮半島を経由して、紀元1〜3世紀ごろに渡来した
集団に由来すると考えられる、ということだ。

当時から耽羅国(済州島)が海外貿易をしていた
ことは文献などから明らかというが、黒潮文化圏は
 思う以上に広大で、悠久の歴史があるのだろう…。

by utoutou | 2022-09-25 11:50 | 琉球王 | Trackback | Comments(6)
Commented by utoutou at 2022-09-26 07:03
> 林さん
コメントありがとうございます。私は何に気づいたのでしょうか(笑)。今朝は奈良の大和神社を思い出しました。なぜ鳥居から社殿まで下り坂なのか? なぜ遣唐使が旅立つ前に参拝したのか?戦艦大和の碑まであって。耽羅というハブに繋がると、また気づきました。
Commented by utoutou at 2022-09-26 07:26
> 匿さん
鬼神は怖い存在ではないと思います。人の状況で、鬼・神どちらにもなるような。昔、今帰仁城を今鬼仁城と書いたのはどうしてなのか? も気になりますね。ところで、リンクを貼ってくださったのも匿さんでしょうか。ありがどうございます。琉球新報の記事と領事館のサイトは以前から拝見していました。堂=御嶽=神社の原型。深すぎて、まだ考えがまとまりません(笑)。
Commented by utoutou at 2022-09-26 07:41
> 匿さん
総領事館のサイト面白いですね。最近のコラムも読ませていただきました。ブラブラ散歩する領事の記事も親しみやすくて。フールーの跡は私も玉城で見たことがあります。石敢當はどうなのか、続編に期待します(笑)。
Commented by utoutou at 2022-09-28 07:42
> 匿さん
「あお」島とか「おう」島は死者を葬う島のこと…という民俗研究もあるくらいですから、いろいろな伝えがあるのでしょうね。逆に「タカラグスクは宝グスク」という話も聞いたことがありますが、宝のように尊い魂の居場所として残された人たちが崇めたのかなと。ゴルフ場内にある玉城王のお墓は「タカラグスク」ですよね。お参りに行ったときに納得したのを覚えています。あと、奥武島のタカラグスクを加羅とか高良と関連して感じ取る方もいらっしゃるようですね。
Commented by utoutou at 2022-09-29 09:46
> 匿さん
ご縁のある島だったのですね。確かにタカラグスクは古墓のようで、『奥武島誌』にも「大屋門中の先祖や漂着した中国人が祀られていると伝わる」と書いてありますね。中国人とか唐人というのは、渡来の人のことだと奥武島の人に聞いたことがあります。
先日、奥武橋を渡る前に車を停めて、おそば屋さんの裏へ回ってみました。ガルガー滝は見えませんでしたけど、富里あたりは至近の距離。志堅原と富里は隣り合わせだと実感しました。ミシラギと奥武観音堂の由来話も、タカラグスクや神座原古墓群のDNAの話も、玉城という土地の海洋性の表れかと思います。今帰仁神の拝所のことは知りませんでした。ありがとうございます。玉城と今帰仁もグスク時代から、というか源為朝で繋がっていますよね。
Commented by utoutou at 2022-10-01 13:17
> 匿さん
垣花樋川も清々しい川泉ですよね。私もよく行きます。
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