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琉球国初代王・舜天〈47〉阿多忠景ふたたび

久高島の元家である屋号・イチャリ小の始祖は、
一説に奄美大島の宇検村(↓地図赤丸)から来た
といい、島立てのときに地に突き立てたとされる棒
(シマグシナー)が、拝所内の一角に祀られている。

アマミキヨは奄美から来たという始祖伝承と合致
  するが、それが神話かリアルな話かは分からない。 

ただ、イチャリ家の人々はイラブー(海ヘビ)漁の
 ために奄美諸島にも渡るスケールの大きい海人だった
ことや、久高島の旧名・宇堅島と奄美の宇検村という
  同音の地名は、リアルな移住ストーリーを思わせる。


ところで、その、
  宇検村で海底遺跡が発見されたのは1995年のこと。
  奄美大島の南西部、焼内湾の倉木崎(↓左の赤印)
  付近の海底で、突然、大量の陶磁器が発見された。
琉球国初代王・舜天〈47〉阿多忠景ふたたび_a0300530_17052211.png








遺物数2300余り。数年間の調査の結果、それらは
  12〜13世紀前半の中国製青磁や白磁や壺と分かった。

調査写真は南海日日新聞記事(2014年)より拝借
琉球国初代王・舜天〈47〉阿多忠景ふたたび_a0300530_17111168.jpg







 調査にあたった考古学者らは、南宋の貿易船が福建
  から日本に向かう途中、座礁か沈没したと推定した。

船体は見つかなかったため、宇検島ではないどこかを
寄港地として進んでいたのではないか、それは奄美
大島北部の龍郷町の戸口(↑赤矢印)ではなかったか
 とも見られた。その推察には、いくつかの理由がある。

 戸口=唐口と考えれば、唐船の港にふさわしい地名だ。

戸口のフーグスク遺跡から、1969年、やはり中国製
 の青磁や白磁、そしてカムィヤキ の壺が出土したこと
 から、南宋交易に関わる按司がいたか…とも言われた。
 集落に残る平家落人伝説も、戸口説を後押しした模様。


いっぽう、
沈没船が目指していたのは、南薩摩の万之瀬川河口
だったのではないかと見る論者も少なからずいる。
倉木崎海底遺跡と、遺物の時期と構成が重なるのだ。

そうすると、南宋(寧波)からの航行ルートは琉球
 〜奄美諸島〜万之瀬川河口〜博多ということになる。

万之瀬川河口には持躰松遺跡がある。以前書いたが、
そこは、薩摩の棟梁であり、琉球初代王・舜天の
後ろ盾と言われていた阿多忠景の所領した交易港だ。

翻って、阿多忠景は、平清盛に追放されてもなお、
奄美・琉球諸島で、南宋交易を続けたのではないか。
その陰にイチャリという久高海人の存在があるかも?


昨年に参った、久高島にあるイチャリ小の拝所
琉球国初代王・舜天〈47〉阿多忠景ふたたび_a0300530_18160642.jpg










by utoutou | 2022-10-12 21:25 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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