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琉球国初代王・舜天〈48〉博多遺跡群

奄美大島・宇検村の倉木崎海底遺跡で発見された
大量の中国製陶器は、12世紀末から13世紀前期に
作られたものだったという。越州窯・龍泉窯
・景徳鎮窯(現在の浙江省)青磁、福建系白磁など。

 舜天の在位時期(1186〜1237年)と微妙に重なる
 ところに、倉木崎海底遺跡の面白さがあると感じる。

その海底遺跡で発見された遺物は、当時、中国南部〜
琉球〜奄美〜博多間に貿易航路があったことを示す。
それを裏付けるように、航路沿いにある南薩摩日置郡
 金峰町の持躰松遺跡や、博多遺跡群と遺物が一致する。


  ということで、
  タイミングが合い博多遺跡群(福岡市祇園)を訪れた。
   博多最古にして総鎮守こと櫛田神社から徒歩で1分。 
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廃校・解体となった冷泉小学校が博多遺跡群の地、
写真左端に、櫛田神社の裏門が見えるほどの近さ。
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 今では祇園という博多の中心街だが、11世紀半ば、
「波打ち際」にできた宋人街が博多遺跡群にあたる。

宋商人(博多綱首)たちが軒並み「唐房」を築いて
 日本初の中華街が誕生した(↓福岡市立博物館掲示)。
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 ちなみにそれ以前、7世紀後半〜11世紀半ばまでは、
 福岡城跡・三の丸付近にあった筑紫館が、外交と
  交易の拠点。後に↓鴻臚館(こうろかん)と呼ばれた
   が、立地は博多遺跡群よりさらに博多湾岸の低丘陵地。
  ここで中央の役人が中国・朝鮮からの積荷を収容した。
   つまりこの地に、外国商人が住むことはまだなかった。
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おびただしい中国陶器は、それが国外に輸出された
 8世紀後半から始まったという交易を如実に物語る。

鴻臚館には新羅や唐や宋の商人などによって、薬品、
香料、装飾品、仏典などの文物と共にもたらされた。
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濃青色で図示された『中国製陶磁器のふるさと』。
別展示では阿児奈波(琉球)航路も示されていた。
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トリミングして近寄ると、中央下2ヶ所の濃青色地帯
の西に、景徳鎮窯、龍泉大窯(赤丸で加工)がある。
荷積船は少し北東の港・寧波から出航したらしい。
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10世紀、唐の滅亡から宋の建国に至る動乱があった。
中国東北部では、渤海が滅んで遼(契丹)が興り、
 また朝鮮半島では、新羅が滅んで高麗が興った時代。
 ちなみに日本では、その10世紀末、平将門の乱を
 きっかけにして律令制度が変質を始めたと言われる。

  宋の建国を跨いで、東南アジアの交易は活発化した。 
  博多にあの宋商人居留地ができたのは、11世紀末。
 12世紀末になると、平清盛が日宋貿易を発展させた。

日宋の私的貿易で富を築いたのは薩摩平氏の阿多忠景
だと考えていたが、こうして博多を歩いても、その名
 には…ましてや、源為朝の名に出会うことはなかった。

 つまり阿多忠景は、南薩摩の持躰松(万之瀬川河口)
で、大規模な私的貿易を完結させていたのだろうか。
  中国・大和・琉球を繋ぐ中継貿易なら最適地に思える。

by utoutou | 2022-10-17 12:32 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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