カムィヤキは、長い間「謎の南島系陶質土器」と 呼ばれたそうだ。琉球諸島と奄美諸島にあるグスク 時代の遺跡から出土するのは中国製青磁と白磁の他、 カムィヤキ(亀焼)などだったが、須恵器に似て いるので類須恵器ともいう。その「謎の土器」は、 1983年、徳之島伊仙町亀焼から窯跡が発見され、 やがて11〜14世紀前半に焼成されたものと判明した。 7月、久々に訪れた↓今帰仁城の歴史文化センター の展示でカムィヤキを見て以来、気になっていた。 按司の登場とグスク時代の始まり、カムィヤキの 伝搬はいずれも11〜12世紀とされ、時代が重なる。 カムィヤキの甕。手前が土器鉢、その他は中国製青磁 カムィヤキと同時期のグスク時代の遺跡から発掘 されたモノに、長崎県西彼杵半島で作られた滑石製 石鍋があるが、高価なもので本土にも流通していた。 ただ、琉球の島々では、逆にそれほど高価でなく、 それまで使っていた土器以上の焼物に需要があった。 亀焼商人はその点に目をつけたらしい。徳之島産の カムィヤキを船に積み琉球の島々を周り売り歩いた。 亀焼商人が得るのは夜光貝・硫黄・赤木。それらは 宋商人の手に渡り、交易品の唐物はヤマトに送られた。 そんなわけで、カムィヤキは日宋貿易を下支えする 主力商品だったが、それを動かした亀焼商人は誰か? 当時、肥前・薩摩・南西・琉球諸島を繋ぐ有力者 の配下にいると考えるのが自然ではないだろうか。 いっぽう阿多忠景が隆盛した12世紀半ば、その 本拠地の南薩摩・持躰松遺跡があった万之瀬川河畔 には、当房という名の宋商人の街があったとされる。 また、ほど近い小薗遺跡は阿多忠景の居城があった とされるが、薩摩には珍しくカムィヤキが出土した。 博多港を介さない密貿易を疎まれ、阿多忠景は平清盛 から追放され(1161年)、その娘婿・宣澄は折しも 九州支配に躍起だった平氏政権に密着したという。 それでは、 源氏と密着した父の時代から、娘婿の時代まで、 阿多氏の日宋私的貿易に協力した按司は誰なのか…? 上と同じく今帰仁歴史文化センターの展示から、 こちらはグスク時代の明との中継貿易図。その端緒 は、阿多氏の活躍した南宋時代からあったのでは?
by utoutou
| 2022-10-27 20:55
| 琉球王
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