人気ブログランキング | 話題のタグを見る

琉球国初代王・舜天〈51〉交易する海人

夢を見た。琉球本島の中南部、筋骨隆々な男性…
「海人(ウミンチュ)は魚を獲っていただけじゃない」
 と言いながら、海岸沿いの道で荷さばきをしている。
 漁の網は干してあるようだ。時代は12世紀のころか。

夢の中で、夏に訪れた当添(とうし)の港を思う。
いまは釣り場で有名。参考※沖縄釣り好き全員集合!
周辺には、ソントンが行商していたとの昔話もある。

そのソントンの道を辿るように行った高台から望む
海岸線。写真左は与那原町板良敷ゴミ処理センター。
 当添からソントン所縁の大里南風原へは、車で10分。
 さらに走り続けると、やはりソントン所縁の八重瀬に。
琉球国初代王・舜天〈51〉交易する海人_a0300530_13401852.jpg








夢を見たのは早朝のこと。目が開いてから思った。
「やっぱり、津波古家が関係しているのだろうか?」

他でもない、カムィヤキ交易のことだ。
グスク時代以前に、南薩摩か徳之島からやって来た
  カムィヤキ商人の琉球側のビジネスパートナーについて
  前回ブログから考えていたので、無意識に反応したか。

 屋号・津波古は「つはぬく・つはのこ」と発音する。
初代王・舜天の墓と伝わる南風原大里の食栄森御嶽
(いいむいうたき)を管理する門中だと、語り部は言う。
 アマミキヨ直系ミントン家に繋がる天孫氏との一説も。


夢に出て来たらしい当添漁港近くの当添公民館
 (とうし・むらやー)に「村の歴史」の掲示があった。
琉球国初代王・舜天〈51〉交易する海人_a0300530_14141191.jpg








「部落の発祥」は、尚質王時代(1648〜1668年)で
  首里降り(士族の移住)がきっかけだったとあるが、
 ここが漁港として発展したのは、南隣の津波古村から
  漁業の様式が伝わったことで半農半漁となったという。

  漁港としては、津波古のほうが歴史は古かったのだ。
琉球国初代王・舜天〈51〉交易する海人_a0300530_14163371.jpg







ところで、
 津波古(つかこ)地名や苗字は、ご存じ現代にもある。
また琉球王府では、東氏(津波古殿内)として公文書
 作成や通訳に携わった知識人の家系で首里士族という。

舜天の墓地と言われる食栄森御嶽を管理していた
屋号・津波古と東氏の関係については不明だが、
食栄森御嶽の神屋に一文字の家紋がつく一対の燭台
 があり、東氏の家紋と一致するのが妙に気になった。


ちなみに、
食栄森御嶽神屋に祀られるのは、中国「宋」の鏡。
祭りのない日は、基本的に神屋は施錠されている。
背ろから覗いても、鏡の背面は板張りされていた。
琉球国初代王・舜天〈51〉交易する海人_a0300530_12332575.jpg






はたして津波古の海人は「魚を獲るだけじゃなく」
 カムィヤキの交易に関わっていたのか? だとすれば、
 舜天の伯父・大里按司との関わりにも確信が持てる。

       語り部は大里按司の陰に阿多氏がいると言っていた。      



by utoutou | 2022-11-02 14:18 | 琉球王 | Trackback | Comments(1)
Commented by utoutou at 2022-11-09 07:29
> 匿名さん
知らなかったことが多すぎて、だから発見となるわけなんですが(笑)。例えば久高島の神行事のイザイホーの様式にはヤマトの古代が埋もれていると感じていた時期がありました。でもその感覚はおそらくズレていて、琉球は琉球という主体であり東南アジア交易の要だったのだと考えるようになりました。琉球は「宝島」だったのですよね。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

<< 琉球国初代王・舜天〈51〉カム... 琉球国初代王・舜天〈50〉カムィヤキ >>