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琉球国初代王・舜天〈53〉喜界島の城久遺跡

奄美大島からエアラインで20分、フェリー2時間の
喜界島(鹿児島県大島郡喜界町)へ。迷わず飛んだ。
羽田を午前に経ち、到着は午後4時。あいにく雨模様。

 明けて2日目も大雨だったが、城久(ぐすく)遺跡へ。
 位置は↓こちら(空港前で撮った地図写真に赤丸加工)


街中にある空港から、車で10分ほどしかかからない。
島で2番目の高さの海岸段丘(90〜160m)にある。
中世集落としての条件を満たしたのは、その立地か。
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国指定史跡の城久遺跡とは、8つの遺跡の総称で、
9〜15世紀にかけての長期間に集落のあったところ。
この集落が、琉球・中国・朝鮮半島・ヤマトを結ぶ
交易拠点だったことは、多くの研究が物語っている。

最盛期だった11世紀後半〜12世紀に「白磁製の椀・
滑石製石鍋・カムィヤキ」という、同じ時期に琉球
全域に広がった遺物が出土したが、ちょうど舜天即位
 のそれと重なることに、私などは強く興味を引かれる。

総面積は17万m2。東京ドームの4ケ分ほどで広大だ。
ここからは島内の他の遺跡から出る兼久式土器などは
 ほとんど出ないため、「非在地性遺跡群」と呼ばれる。

出土品の8割以上が、本土・中国・朝鮮半島で生産
された陶磁器、その他が徳之島産のカムィヤキという
 構成も、ここが琉球特産の夜光貝・赤木・檳榔などを 
 得るための交易拠点だったと、近年指摘される根拠だ。

日宋貿易で金と権力を得たものの、平清盛に追放
された阿多忠景が、この新天地で最盛期を招来したか
と、私は密かに考えるが、出土品を展示する近くの
 埋蔵物文化センターには、ただ遺物が整然と並ぶのみ。


完全形のカムィヤキを初めて見た。右の壺の色が
濃淡なのは光線の加減。全面が鉄色っぽいグレーだ。
幅は20㎝弱。やはり稲籾など種の貯蔵器だったか。
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遺跡の全景写真は、センターの展示解説から↓拝借。
奄美大島側から太平洋方向に向け空から撮ったもので、
写真左の土色に見える縦長の区域が城久遺跡群となる。
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街から近いとは言っても、この遺跡群、サトウキビ畑
…遺跡…サトウキビ畑…現集落は見えるが…サトウキビ畑
 …遺跡という感じで、出口のない迷路のように続いている。

300棟以上あった掘立柱建物跡が復元されたという
山田半田遺跡を目指したが、雨の中で右往左往した。


 が、走るうち偶然にも城久遺跡のひとつ、前畑遺跡に
出くわした。9世紀〜12世紀の遺跡で、石敷遺構
(石敷きの道跡)や炉跡や鎌状の鉄製品が出たという。
 ここからも100棟の掘立柱建物跡が出た、との説明も。
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ところで、羽田から奄美大島経由で喜界島へと、
長い往路のお供として、読んでみた1冊がある。
民俗学者の吉成直樹氏・著『琉球史を問い直す』。

その中で吉成氏は(最盛期の)城久遺跡群の経営主体
 は「宋商人、高麗商人、南九州の勢力」だと記す。
 南九州の勢力とは、阿多忠景の薩摩平氏ではないか?






















by utoutou | 2022-11-23 21:13 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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