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琉球国初代王・舜天〈56〉夜光貝と産鉄

城久遺跡群の大ウフ遺跡から大規模な製鉄跡が
 現れた喜界島には、太宰府の出先機関があった。

『日本紀略』など、いくつかの文献に、太宰府
 管内(九州諸国)で起きた南蛮(奄美嶋人の海賊)
 による襲来事件の記事が見えるが、それらによると、
998年、太宰府は「貴駕島(喜界島)」に南蛮を
捕えることを下知し(命じ)たという。※永山修一
氏「文献から見えるキカイジマと城久遺跡群」参照

一度に数百人を襲い略奪する事件を起こした海賊を
 捕えるほどの軍事力を有する集団が、喜界島にいた。
 国家機関ならではの組織が存在したとのことらしい。

一説に、襲撃の対象となっていたのは各地の海人、
 背景には夜光貝などの交易トラブルがあったという。

 10世紀初頭に唐が滅亡してから、東シナ海の交易は
  自由化され、海賊が活発に動くようになっていた。
 

 島の居酒屋で夜光貝のお刺身をいただいた。美味。
 刺身盛り一人前1100円で、夜光貝入りだと1450円。
  バター焼や天ぷらもあった。貝殻の中はほぼ真珠色。
  螺鈿の素材だった夜光貝は中尊寺金色堂などを飾った。
  南島の夜光貝・赤木・檳榔は平安貴族が珍重した品々。
琉球国初代王・舜天〈56〉夜光貝と産鉄_a0300530_12253315.jpg







ところで、
 話は前回の「喜界島の鉄」に戻るが、くだんの新聞
 記事で、村上教授は琉球への影響にも言及している。

 氏が、影響を受けた遺跡として挙げたのは、
喜界島の製鉄鍛治の集中生産は、それが琉球への
 戦略物資だったことを物語るのではないかと言う。

 私が旅のお供にした『琉球史を問い直す』にも、
 後兼原遺跡など琉球各地には、喜界島からの移住
  集団がいたことが推察されると、記されている。
後兼原遺跡からはグスク土器が出たが、それ以前
 の土器が出土しないのは人々が渡来したからだと。

 そう言えば、久高島には、喜界島から来た祖神
 「キィキャ大主」が戦後まで祀られていたというが、
 そうした移住集団の首長だったのかもしれない。


 カニマンと呼ばれた人々は同時に稲作も伝えた。
つまり、鉄と米作りのノウハウを供給できた
 渡来集団が、琉球王国成立の鍵を握っていたか。
 その魁が、舜天を生む「火の一族」なのだろうと、
 「サトウキビの一本道」を車で北上しながら思った。
琉球国初代王・舜天〈55〉隼人の鉄(続)_a0300530_07370084.jpg







喜界島では大陸・琉球・大和の歴史が渾然一体。
島の北東の志戸桶(しとおけ)集落の海辺には、
壇ノ浦で負けた平資盛らが上陸した記念碑もある。
琉球国初代王・舜天〈56〉夜光貝と産鉄_a0300530_08151336.jpg







by utoutou | 2022-12-07 16:05 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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