帰路、喜界島から奄美大島へと向かう機上からの 島の北東部、遠景。右(東)の湾口が平家上陸の地。 左手の大きな湾口の奥に平家森という要塞跡がある。 平資盛が壇ノ浦から落ち延び追っ手に備えたという。 上陸地の海岸近くに菅原神社(天満宮)が鎮座して、 菅原道真が祀られている。〜当社は壇ノ浦の落人 平資盛一行が建仁二年(一二〇二年)当沖名泊に 無事漂着した事を神に奉謝し、併せて一門の武運 を祈念して奉祀したと伝えられ 〜と、由来の碑に。 ![]() ![]() 偶然に見つけたのは、目の端に入った石段の手すり が一瞬、光ったからだった。本土的な墓地の奥に、 何かしら琉球の気配を感じて停まり、車を降りる。 ![]() それは、 琉球国第一尚氏王朝七代国王・尚徳のお墓だった。 一人、手前の墓地でお参りする女性がいらしたが、 声をかけるのもはばかられ、勝手に石段に進むと、 現れた情景に、ワッと声が出た。まさかここに。 ![]() 傍に墓碑銘がある。何よりもまず、刻字をなぞる。 非常に読みにくかったが、とにかく当家(内容から 孝野家と分かる)の娘・カミーは尚徳王の妻となり 三児を授かったと綴られている。そして尚徳一家は 島に逃げるが、王は疲労と病から亡くなったという。 遺言により、墓は首里を向いて建てられた…とも。 1466年「喜界島征伐」で勝将となった尚徳王だが、 クーデターで失脚、海に身を投じたという琉球伝承 とは異なり、この島に戻り生涯を閉じていたとは。 王墓の右手前には妻の実家一門の代々のお墓がある。 ![]() また車を数分も走らせると、小野津という集落に 源為朝ゆかりの「雁股の泉」がある。説明板には、 〜 保元の乱(1156年)で敗れた源為朝は伊豆 大島に流され、1165年、琉球に渡ろうとした 途中に時化に遭い潮流に乗って喜界島の沖合に たどり着いたとき、船上から島をめがけて雁股の 矢を放ち、上陸の後その矢を抜いた痕より清水 が湧き出た… 〜と、泉の名の由来が記されている。 大きな鯉が泳いでいて、集落の憩いの場という趣。 ![]() その小野津集落に鎮座する八幡神社は、為朝の創祀と も伝わるが、境内には、11世紀〜12世紀に中国や 日本本土で作られた陶磁器が保管されていた(↓資料 は埋蔵文化財センターより)。ひとつは越州産の水柱、 ひとつは福建省の壺、もうひとつは、薩摩・金峰町で 作られた須恵器の長瓶…と知って、私はのけぞった。 金峰町は、源為朝の舅だったとされる阿多忠景の本拠。 為朝と忠景という「敗者」同士、舜天の誕生と同時代 という須恵器の瓶…その組み合わせにリアルを感じる。 ![]()
by utoutou
| 2022-12-13 20:32
| 琉球王
|
Trackback
|
Comments(0)
|
![]() by utoutou カテゴリ
全体 ミントングスク 久高島 イザイホー 玉城 語り部 城(ぐすく) 天孫氏 御嶽 スサノオ 出雲 神社 琉球の神々 伊勢 洞穴(ガマ) 龍蛇神 ヤマトタケル お知らせ 天女伝説 斎場御嶽 ナーワンダーグスク 石垣島 九頭龍 瀬織津姫 琉球の玉 舜天 琉球王 グスク・御嶽 最終章 未分類 最新の記事
以前の記事
2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 2024年 07月 more... 画像一覧
最新のコメント
最新のトラックバック
検索
記事ランキング
ブログパーツ
フォロー中のブログ
ブログジャンル
外部リンク
ファン
|
ファン申請 |
||