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琉球国初代王・舜天〈57〉敗者の島

帰路、喜界島から奄美大島へと向かう機上からの
 島の北東部、遠景。右(東)の湾口が平家上陸の地。
 左手の大きな湾口の奥に平家森という要塞跡がある。
 平資盛が壇ノ浦から落ち延び追っ手に備えたという。

 上陸地の海岸近くに菅原神社(天満宮)が鎮座して、
菅原道真が祀られている。〜当社は壇ノ浦の落人
平資盛一行が建仁二年(一二〇二年)当沖名泊に
無事漂着した事を神に奉謝し、併せて一門の武運
  を祈念して奉祀したと伝えられ 〜と、由来の碑に。
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喜界島は落人の島であり、僧・俊寛が没した流刑の
 島であり、志戸桶集落には、琉球国王の墓もある。
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偶然に見つけたのは、目の端に入った石段の手すり
 が一瞬、光ったからだった。本土的な墓地の奥に、
 何かしら琉球の気配を感じて停まり、車を降りる。
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それは、
琉球国第一尚氏王朝七代国王・尚徳のお墓だった。
一人、手前の墓地でお参りする女性がいらしたが、
声をかけるのもはばかられ、勝手に石段に進むと、
現れた情景に、ワッと声が出た。まさかここに。
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傍に墓碑銘がある。何よりもまず、刻字をなぞる。
非常に読みにくかったが、とにかく当家(内容から
孝野家と分かる)の娘・カミーは尚徳王の妻となり
三児を授かったと綴られている。そして尚徳一家は
 島に逃げるが、王は疲労と病から亡くなったという。
 遺言により、墓は首里を向いて建てられた…とも。

 1466年「喜界島征伐」で勝将となった尚徳王だが、
クーデターで失脚、海に身を投じたという琉球伝承
 とは異なり、この島に戻り生涯を閉じていたとは。
  王墓の右手前には妻の実家一門の代々のお墓がある。
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また車を数分も走らせると、小野津という集落に
 源為朝ゆかりの「雁股の泉」がある。説明板には、
〜 保元の乱(1156年)で敗れた源為朝は伊豆
大島に流され、1165年、琉球に渡ろうとした
途中に時化に遭い潮流に乗って喜界島の沖合に
 たどり着いたとき、船上から島をめがけて雁股の
矢を放ち、上陸の後その矢を抜いた痕より清水
  が湧き出た… 〜と、泉の名の由来が記されている。
 
   大きな鯉が泳いでいて、集落の憩いの場という趣。 
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その小野津集落に鎮座する八幡神社は、為朝の創祀と
も伝わるが、境内には、11世紀〜12世紀に中国や
日本本土で作られた陶磁器が保管されていた(↓資料
 は埋蔵文化財センターより)。ひとつは越州産の水柱、
ひとつは福建省の壺、もうひとつは、薩摩・金峰町で
作られた須恵器の長瓶…と知って、私はのけぞった。

 金峰町は、源為朝の舅だったとされる阿多忠景の本拠。
為朝と忠景という「敗者」同士、舜天の誕生と同時代
 という須恵器の瓶…その組み合わせにリアルを感じる。
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by utoutou | 2022-12-13 20:32 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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