大河ドラマ『鎌倉殿…』が遂に終わった。 13人のひとり安達盛長のことはよく覚えている。 源頼朝がもっとも信頼した御家人だったという。 奥州征伐にも従軍して、頼朝亡き後は出家した。 ※もはや懐かしい写真はNHK番組サイトから拝借 ![]() 安達盛長が頼朝の挙兵前に見たという夢の話が、 『曽我物語』にある。伊豆山神社に隠れていた頼朝 と政子に話したという、その夢に喜界島が出てくる。 曰く、頼朝は足柄で3杯の酒を飲み、左足を奥州の 外ヶ浜に置き、右足を西国の鬼界ヶ島に置いている。 左右の袂にはには日月を入れている。その夢とは、 まさに朝廷を守護する大将軍となる「正夢」だった わけだが、頼朝にとって喜界島は「勝者の島」だ。 東の境界の奥州平泉には、中尊寺金色堂を建てた 藤原秀衡がいた。螺鈿細工を飾る眩い夜光貝は、 ほかでもない南島産のものだった。そして、 西の境界の喜界島には、平氏政権が利権を握る 太宰府の出先機関としての交易センターがあった。 1189年、安達盛長の夢の通りに現実が運ぶ。 頼朝が天野遠景を派遣して「喜界島征伐」をした。 遡って1187年、惟宗(島津)忠久が薩摩守護地頭と なり、同年、琉球国初代王・舜天が即位したと伝える。 さらに遡って、 1165年、源為朝は琉球に着いたと『中山世鑑』に。 同年、為朝は喜界島に着いたと喜界島の伝承はいう。 ![]() 伝承を併せると、喜界島滞在は1年もないことに なる。為朝にとって喜界島は通過点だったのか? とすれば、どんな目的で喜界島を通過したのか? 為朝の創祀と伝わる小野津八幡神社(写真は拝借) ![]() 「武士は移動する」と、野口氏は同著冒頭に記した。 いわば平安武士だった為朝と忠景は、交易の発展を 図り、琉球へと移動したのではなかったか(私見)。 巨富と、利権と、数百〜数千にも及ぶ軍勢だった からこそ若てぃだ・ソントン(舜天)は誕生した。 軍勢の大半を占めたのは、阿多の海人だったと思う。 ![]()
by utoutou
| 2022-12-21 20:54
| 琉球王
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