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琉球国初代王・舜天〈58〉頼朝の喜界島

大河ドラマ『鎌倉殿…』が遂に終わった。
13人のひとり安達盛長のことはよく覚えている。
源頼朝がもっとも信頼した御家人だったという。
奥州征伐にも従軍して、頼朝亡き後は出家した。

※もはや懐かしい写真はNHK番組サイトから拝借
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 安達盛長が頼朝の挙兵前に見たという夢の話が、
『曽我物語』にある。伊豆山神社に隠れていた頼朝
  と政子に話したという、その夢に喜界島が出てくる。

 曰く、頼朝は足柄で3杯の酒を飲み、左足を奥州の
  外ヶ浜に置き、右足を西国の鬼界ヶ島に置いている。
  左右の袂にはには日月を入れている。その夢とは、
  まさに朝廷を守護する大将軍となる「正夢」だった
   わけだが、頼朝にとって喜界島は「勝者の島」だ。

 東の境界の奥州平泉には、中尊寺金色堂を建てた
 藤原秀衡がいた。螺鈿細工を飾る眩い夜光貝は、
 ほかでもない南島産のものだった。そして、
 西の境界の喜界島には、平氏政権が利権を握る
  太宰府の出先機関としての交易センターがあった。

  1189年、安達盛長の夢の通りに現実が運ぶ。
     頼朝が天野遠景を派遣して「喜界島征伐」をした。  
  遡って1187年、惟宗(島津)忠久が薩摩守護地頭と
   なり、同年、琉球国初代王・舜天が即位したと伝える。

さらに遡って、
  1165年、源為朝は琉球に着いたと『中山世鑑』に。
   同年、為朝は喜界島に着いたと喜界島の伝承はいう。
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伝承を併せると、喜界島滞在は1年もないことに
なる。為朝にとって喜界島は通過点だったのか?
とすれば、どんな目的で喜界島を通過したのか?

 為朝の創祀と伝わる小野津八幡神社(写真は拝借
琉球国初代王・舜天〈58〉頼朝の喜界島_a0300530_17450079.jpg






源為朝と阿多忠景の「連携」は、日宋貿易への
 介入を意図していたと、歴史学者の野口実氏は、
著書『列島を駆ける平安武士 九州・京都。東国
で述べている。そもそも『保元物語』は、為朝
の傍若無人ぶりを案じた父・為義が、遠方の鎮西
に下向させたと描いたが、実は長男・義朝を坂東に
下したように、摂関家のネットワークを駆使しつつ
 遠隔地で武士団を結成し、流通拠点の掌握を狙い、
 凋落した源氏勢力の挽回を目指していた、と。

私的貿易で得た富で摂関家との関係を深めていた
 阿多忠景に婿入りすることで結託したからこそ、
 為朝は豊後・薩摩など、鎮西を席巻できたのだと。

「武士は移動する」と、野口氏は同著冒頭に記した。

いわば平安武士だった為朝と忠景は、交易の発展を
 図り、琉球へと移動したのではなかったか(私見)。

巨富と、利権と、数百〜数千にも及ぶ軍勢だった
 からこそ若てぃだ・ソントン(舜天)は誕生した。
 軍勢の大半を占めたのは、阿多の海人だったと思う。


喜界島は語るヤマト人によって「喜」にも「鬼」に
もなった。※喜界島埋蔵文化財センターの掲示から
琉球国初代王・舜天〈58〉頼朝の喜界島_a0300530_10484167.jpg








by utoutou | 2022-12-21 20:54 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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