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琉球国初代王・舜天〈59〉アマミ族の移住

 10日前のブログ「敗者の島」に、離陸後に上空から
 の喜界島の写真を載せた。で、その3分後が↓こちら。
 飛行時間は20分、奄美大島空港へと降り始めていた。
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初めての奄美への旅だった。奄美大島へは上陸して
いないので、あのときすぐには分からなかったが、
空港へと着陸する寸前に目に入ったのは、奄美パーク
調べると「空港から車で5分」の観光情報センターだ。
白いドーム型の建物は「奄美の郷」という施設らしい。
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奄美パークは、空港と同じ奄美市笠利町にある。
また、同じ笠利町の宇宿にあるマツノト遺跡は、
夜光貝の加工品が大量に出たことで有名で、琉球
 との交易や、喜界島城久遺跡との関連が思われる。

そして、同町の宇宿遺跡からは喜界島と同じタイプ
の火葬墓が出土している。つまり喜界島城久遺跡は
太宰府の出先機関で奄美大島からは独立した地域
 だったというが、人的な交流はあったのではないか。

また、奄美パークの背後に見える山稜の向こうには
龍郷町があり、秋名集落で続くショチョガマという
 祭りがあるという。それが男の祭りであることや、
時期が同じ旧暦8月でもあり、沖縄久高島の太陽神
の祭りにとてもよく似ていると、考えていた。

 五穀繁栄を祈る奄美の島々のスントゥノ(若てぃだ)
信仰は、琉球ではソントン信仰となり、「昇りくる
太陽」を意味する偉大なリーダー・舜天を生んだ。

前回、
南薩摩や喜界島から大勢の移住軍団が琉球へ入ったと
書いたが、そのいわば、「アマミ族」には奄美大島の
人々もいたのではないかと、写真↑を見ながら思う。

移住者たちは、日宋交易など東南アジア交易の利権
を掌握する海商集団に属しながら、①航海に長けて
物資の運搬もできる海人で、ある人々はカニマン
らしく②製鉄技術を持ち、また③稲作経験があり、
若てぃだ(太陽)信仰を持っていたのだろうと思う。


考古学的に指摘される最大の特徴は、その持参品だ。
 その人々は3点セットの陶磁器と共に渡琉した。
3点とは、中国製白磁碗、徳之島で焼いた須恵器質
 のカムィヤキ、長崎県西彼杵半島産の滑石製の石鍋。
琉球国初代王・舜天〈59〉アマミ族の移住_a0300530_11241628.jpg
※写真は喜界島埋蔵文化財センターの掲示より






 宮城弘樹氏は、
(敬文社、2022年刊)に次のように記す。

 〜 琉球列島における農耕のはじまりは、おおよそ
 喜界島を含めた奄美諸島で先行し、この地域を介し
て、沖縄・宮古・八重山へと11世紀以降に斬次的
に南下したと考えられるようになってきた 〜

〜 この時代の遺跡から特徴的に出土する遺物が、
三つ知られている。これは三点セットと俗称され 〜

〜三点セットが琉球文化圏で広く確認される事実は、
農耕とともに、住まい・食器・墓制など、生活
スタイルや風習が単に伝播するだけでなく、時に
 人の移住を含めて急速に広がったことを意味する 〜

そういうわけで、
 11世紀中頃、琉球の人々の漁労採集生活は終わり、
  農耕の始まりと共に琉球文化圏が成立したという。 



by utoutou | 2022-12-27 16:14 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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