10日前のブログ「敗者の島」に、離陸後に上空から の喜界島の写真を載せた。で、その3分後が↓こちら。 飛行時間は20分、奄美大島空港へと降り始めていた。 ![]() ![]() 奄美パークは、空港と同じ奄美市笠利町にある。 また、同じ笠利町の宇宿にあるマツノト遺跡は、 夜光貝の加工品が大量に出たことで有名で、琉球 との交易や、喜界島城久遺跡との関連が思われる。 そして、同町の宇宿遺跡からは喜界島と同じタイプ の火葬墓が出土している。つまり喜界島城久遺跡は 太宰府の出先機関で奄美大島からは独立した地域 だったというが、人的な交流はあったのではないか。 また、奄美パークの背後に見える山稜の向こうには 龍郷町があり、秋名集落で続くショチョガマという 祭りがあるという。それが男の祭りであることや、 時期が同じ旧暦8月でもあり、沖縄久高島の太陽神 の祭りにとてもよく似ていると、考えていた。 五穀繁栄を祈る奄美の島々のスントゥノ(若てぃだ) 信仰は、琉球ではソントン信仰となり、「昇りくる 太陽」を意味する偉大なリーダー・舜天を生んだ。 前回、 南薩摩や喜界島から大勢の移住軍団が琉球へ入ったと 書いたが、そのいわば、「アマミ族」には奄美大島の 人々もいたのではないかと、写真↑を見ながら思う。 移住者たちは、日宋交易など東南アジア交易の利権 を掌握する海商集団に属しながら、①航海に長けて 物資の運搬もできる海人で、ある人々はカニマン らしく②製鉄技術を持ち、また③稲作経験があり、 若てぃだ(太陽)信仰を持っていたのだろうと思う。 考古学的に指摘される最大の特徴は、その持参品だ。 その人々は3点セットの陶磁器と共に渡琉した。 3点とは、中国製白磁碗、徳之島で焼いた須恵器質 のカムィヤキ、長崎県西彼杵半島産の滑石製の石鍋。 ![]() 宮城弘樹氏は、 (敬文社、2022年刊)に次のように記す。 〜 琉球列島における農耕のはじまりは、おおよそ 喜界島を含めた奄美諸島で先行し、この地域を介し て、沖縄・宮古・八重山へと11世紀以降に斬次的 に南下したと考えられるようになってきた 〜 〜 この時代の遺跡から特徴的に出土する遺物が、 三つ知られている。これは三点セットと俗称され 〜 〜三点セットが琉球文化圏で広く確認される事実は、 農耕とともに、住まい・食器・墓制など、生活 スタイルや風習が単に伝播するだけでなく、時に 人の移住を含めて急速に広がったことを意味する 〜 そういうわけで、 11世紀中頃、琉球の人々の漁労採集生活は終わり、 農耕の始まりと共に琉球文化圏が成立したという。
by utoutou
| 2022-12-27 16:14
| 琉球王
|
Trackback
|
Comments(0)
|
![]() by utoutou
カテゴリ
全体 ミントングスク 久高島 イザイホー 玉城 語り部 城(ぐすく) 天孫氏 御嶽 スサノオ 出雲 神社 琉球の神々 伊勢 洞穴(ガマ) 龍蛇神 ヤマトタケル お知らせ 天女伝説 斎場御嶽 ナーワンダーグスク 石垣島 九頭龍 瀬織津姫 琉球の玉 舜天 琉球王 グスク・御嶽 最終章 未分類 最新の記事
以前の記事
2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 more... 画像一覧
最新のコメント
最新のトラックバック
検索
記事ランキング
ブログパーツ
フォロー中のブログ
ブログジャンル
外部リンク
ファン
|
ファン申請 |
||