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琉球国初代王・舜天〈62〉今帰仁村の玉城

今帰仁村(なきじんそん)玉城は、南部の玉城
 と違い「たましろ」と読む。古くは「たもーし」。
 語り部の話にその今帰仁村の玉城はよく出てくる。

今帰仁城の築城より古い時代から集落はあったと。
人々は、ウチグスクをフルグスク(古城)と呼び、
玉城の湧川家には、ウチグスクへの遥拝所があると。


 昨夏に訪れて撮った今帰仁城跡。
玉城と逆側の城壁。その西の谷に志慶真川が流れる
琉球国初代王・舜天〈62〉今帰仁村の玉城_a0300530_07432934.jpg







 今帰仁城跡の地図で見る玉城集落は、写真中央右側。
 今帰仁城(写真左上)の約3㎞南東にウチグスクが、
その南に、最近有名になったシイナグスクが見える
琉球国初代王・舜天〈62〉今帰仁村の玉城_a0300530_07491363.jpg








シイナグスクが有名になったのは、世界遺産の
今帰仁城跡・附(つけたり)シイナ城跡」として
  並び称されるようになってからのことだ。

 今帰仁城より古く築城が試みられた城と言われる。
一説には、大井川の川泉が枯れたためシイナグスク
 城下の人々は水源を求めて今帰仁に移動したという。

ウチグスク、シイナグスクともに大井川沿いにある。
いっぽう、今帰仁城の西には志慶真川が流れている。


  さて、前回書いた西威王の養育係・伊良部の比屋が、
 なぜ沖縄本島の南北にある玉城に関係すると思うか?

 沖永良部島にも玉城(現・和泊町)があったという
 が、伊良部の比屋がいたという話は見つからない。

  ただし、沖永良部島の玉城には永良部世之主がいた。
  島の娘が生んだ北山王の子、幼名・真松千代である。

それは14世紀末のことで、西威王の時代より数百年
  も降るが、北山と沖永良部島の関係がさらに古くから
  あったなら、伊良部の比屋の琉球移住はあり得る。

  英祖王統五代・西威王が「西威」を名乗るゆえんは、
「その領地が、北山の防衛戦にあたる読谷間切の大西
 にあったから」と伝わっている。つまり、西威王を
  育てた伊良部の比屋は北山を本拠としていたわけだ。


伊良部の比屋が、西威王の遺した妻子と暮らした
という沖縄本島南部玉城にある玉城城。
西威王の没後、比屋は初めてこのグスクを見上げた
琉球国初代王・舜天〈62〉今帰仁村の玉城_a0300530_10094596.jpg


by utoutou | 2023-01-20 21:06 | 琉球王 | Trackback | Comments(1)
Commented by utoutou at 2023-01-25 08:38
> 匿名さん
こんにちは。玉城の湧川さんにお話を伺ったことがありますが、今帰仁への巡礼(今帰仁上がり)は欠かさないとおっしゃっていました。そこに浮かぶ北山・中山・南山の人々の相互のつながりは、やがて琉球王朝の成立に関わっていくのではと、考えています。奥武島、そうでしたね、またお邪魔して歩いてみたいと思います。
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