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琉球国初代王・舜天〈63〉テンチヂアマチヂ御嶽

玉城城(ぐすく)には、「白米城伝説」があり、
沖永良部島から渡来した伊良部の比屋が登場する。

察度に王位継承し自らは玉城按司となった西威王
  だったが、父・玉城王の弟(北山王)の恨みを買い、
 北山軍に攻められ絶命したという、その後日譚が、
 ミントン門中の古老による『如件』に綴られている。
(※西威王と察度王が従兄弟だった話もミントン伝承)

〜 元西威王の養育係の伊良部の比屋は大いに怒り、
軍船を奥武門に着け自ら城の模様を見に行きました。
  すると、城内の者にはそのことが分かり、
貯水の沢山ある形を見せました。比屋は、この城を
落とすのに時間がかかると思い、帰る途中、仲栄真
の下で畑を耕す者にそのことを話したら、あれは
水ではなく、砂かお米であると話しました 。

比屋は引き返し城を囲みました。城内は一人残らず
 逃げ出し、たやすく城を落とすことができました。
比屋は西威王の妻子を呼び出して、自分は按司の務め
をなし、城内で暮らすことになりました。 〜

ちなみに、西威王には二人の男子がいたという。
 次男腹はいまも屋号・赤嶺(あかんみ)を名乗るが、
  その由来は「次男がまだ赤子だったため」と聞いた。



玉城城・主郭の城門から斎場御嶽方面を遠望

琉球国初代王・舜天〈63〉テンチヂアマチヂ御嶽_a0300530_13432201.jpg








さて、白米城伝説は、九州などヤマト各地に残る。
山上の城が敵に囲まれて水路を断たれたとき、馬に
 水に見せかけた白米を流す戦略で勝機を取り戻す話。

なぜこの玉城にヤマトの戦国伝説が残っているのか?

 長年、それはなぜだろう? と不思議に思っていたが、
 最近、このとき玉城城を占拠していた北山軍団には、
 ヤマトからの渡来人がいたと考えるようになった。


理由は、アマミキヨが造ったと伝わる玉城グスクの
テンチヂアマチヂ御嶽(天つぎあまつぎ御嶽とも)。
神名は、「アガル御イベ、ツレル御イベ」。
琉球国王が雨乞いの儀式を行った、至聖の御嶽。
城門から振り返ると、前方に石垣と香炉が見える。
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いっぽう、本島北部の
今帰仁城にも、テンチヂアマチヂ御嶽はある。
神名は、「テンツギノカナヒャブノ御イベ」。
こちらも今帰仁城の守護神を祀る至聖の御嶽だ。
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先日、語り部がこんなことを言っていた。
「テンチヂアマチヂは、本島の3ヶ所にしかない」

「え、あとの1ヶ所はどちらなんですか?」
と聞くと…
 「本島北部の大宜味村謝名城(じゃなぐすく)です。
集落には、上(うぃー)グスク、根謝銘(ねざめ)
グズク、国頭(くんじゃん)グスクがあります。
 そこの万川(まんかー)という家は、大陸から朝鮮
  半島を経て来た、騎馬民族の末裔と言われています」

その話で、ひとつ謎が解けてきそうな気がする。
というのも、琉球国初代王の幼名・ソントンとは、
若ティダ(東の水平線に昇る太陽)の意味で、
 水平的・南方的な…ニライカナイ信仰を思わせる。

 いっぽう、テンチヂアマチヂ御嶽が示すものは、
 垂直的・大陸的な…いわばオボツカグラ信仰だ。

  舜天王統から英祖王統へ王権が継承された経緯とは、
  「海」よりも「天」を崇める人々が北方から渡来して、
  やがて琉球で融合したということではないか…?

by utoutou | 2023-01-25 11:40 | 琉球王 | Trackback | Comments(0)
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