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グスクの時代〈10〉浦添グスクへ行く

名護市の南部・幸喜にある名護市民ビーチから
名護湾を眺めてみた。高麗系瓦の出た屋部川河口は
 山並みの手前の麓、写真の中央右あたりのようだ。

 名護市にある主な遺跡は8ヶ所ほどあるというが、
 その屋部遺跡や、山並みの向こう側の羽地遺跡など、
 いずれも肥沃な河口に位置している。稲作の技術を
  携えて渡来した、グスク時代の人々の営みを思う朝…
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屋部川河口付近。見えている橋が県道449号線。
その整備工事中に高麗系瓦が出土したという。
橋の先には屋部渡波屋公園。改めて歩いてみたい…
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こちら、「なごしのいせき展」で見た高麗系瓦。
「屋部川河口古瓦出土地」が、図示されている。
なぜ名護市から高麗系瓦が発掘されたかの謎には、
前回紹介したように、三つの解答案があるという。
①交易港があった ②廃棄された ③窯があった。

 調べると、屋部の古瓦は浦添グスク型に分類される。
それなら、①②③のすべてという謎解きもアリでは?
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実はこれまで、
浦添城跡や首里城や勝連城跡で発掘されてきた
「高麗系瓦」を、勝手に「高麗瓦」と括っていた。

しかし、考えてみるとズバリ「高麗瓦」と呼べるのは
浦添ようどれと首里城の京の内から出土したという
「癸酉年高麗瓦匠造」銘の型押しがある瓦に限られる。
その他のものは、すべて「高麗系瓦」と呼ばれていた。

というわけで、癸酉年に造られた「高麗瓦」を見よう
と、本島北部の名護から中部の浦添ようどれ館へ。
 あれは沖縄を離れる日、空港へ向かいつつ立ち寄った。


展示する高麗系瓦のうち、「癸酉年高麗瓦匠造」
のは左下。沖縄最古、約700年前に焼かれた高麗瓦
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浦添ようどれ館の壁に年表があり、まさに
「癸酉年」がいつだったかも記されている。
1153年、1213年、1273年、1333年、1393年。
浦添グスクは13世紀の築城とされることもあり、
近年では、1273年と1333年説が有力のようだ
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 館内のどこかから、ガイドさんの声が聞こえる。
「高麗瓦は、サンベツショウの戦いで敗れて逃れた高麗軍
の人々が琉球に持ち込んだのだろうという説があります」

そうなんだろうか…?
モンゴル軍に抵抗した三別抄の乱は、1273年に
 済州島で終結したというが、三別抄は高麗の軍事組織。
そのなかに高麗瓦の匠工がいた? とか瓦を運んだとか?
  ただ、グスクの時代に高麗が深く関わっているのは確か。


by utoutou | 2023-03-18 16:59 | グスク・御嶽 | Trackback | Comments(0)
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