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グスクの時代〈15〉義本王の墓

義本王墓を初めて訪れたのは10年ほど前のこと。
当時はアシムイの御嶽との関連を考えもせず、
ひたすら辺戸(へど)を目安に探した記憶がある。

舜天王統の三代目・義本王は「中山世鑑』には
こう記される。南宋時代の1206年、44歳で即位
 したが、飢饉や疫病が流行して人民の半ばを失った
ため自らの不徳を嘆き、在位11年のとき群臣が推薦
  した恵祖の世の主の嫡子である英祖に譲位したと。

 当時は、アマミキヨ上陸の地と伝わる沖縄本島南部
 の御嶽廻りを趣味としていたが、その地には玉城城を
 居城とした義本王が、譲位すると人知れず姿を消した
という伝承がある。その行き先とされる場所は各地
にあるが、そのひとつがなぜこの辺戸だったのか…?
  
  辺戸では旧家の佐久真家に身を寄せていたとされ、
  お墓は現在まで、その子孫が管理しているという。
墓前は清掃されており、参拝者が絶えない様子
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墓は東向き。安置されていた逗子甕は、
明治期の改修時に尚家から送られた陶棺だという
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地図を拡大すると、義本王の墓(赤三角の「現在地」)
 が、辺戸の一帯の中心地であるかのような印象も受ける。

地図の右上、辺戸岬の断崖が途切れたあたりに宇佐浜
遺跡があり、地図左下にアシムイの御嶽が見える。
その中間にあたる一帯が、古来より「アマングシク」
と呼ばれたアマミキヨの里。義本王の墓はそこにある
グスクの時代〈15〉義本王の墓_a0300530_14185519.jpg








義本王の墓から降り国道58号線に出ると、アシムイ
の御嶽がそびえて立つのが見える。さらに車で数分
南へ走ると、アシムイの御嶽への登山口と駐車場だ。

このとき私が立つ背後は、グスク時代の「遺物集積地」
とされる場所となる。ふと、ある思いが頭をよぎる。

琉球国初代の舜天王を生むことになる源為朝の一団は、
この辺戸の地にも足跡を残していたのかもしれない…。
(撮影した時刻は15時半、逆光で眩しかった)
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もうひとつ思うのは本島南部・大里だ。食榮森御嶽
にある舜天王の墓は、仏教の影響を思わせる形
から、ボーントゥー(経筒)墓と呼ばれているが、
義本王の墓も、この型を継承したかのように見える。

国頭村の指定建造物となっているその墓は、沖縄
の伝統的な亀甲墓や破風墓とは異なり「家形」。
ただし、屋上の石はボーントゥの宝珠に似ている。
グスクの時代〈15〉義本王の墓_a0300530_14322148.jpg





なぜここに消えた王墓と伝説が残っているのか…
をはじめとして、この琉球最北の地・辺戸には、
まだ知られざる歴史が埋まっているようだ。
例えば、琉球開闢の第一の御嶽とされるアシムイ
の御嶽はなぜ、「黄金森」と呼ばれたのだろうか?


















by utoutou | 2023-04-15 16:28 | グスク・御嶽 | Trackback | Comments(0)
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