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辺戸岬の御嶽廻り〈10〉新アマミキヨ族の南進

アシムイ御嶽の頂上に立って、語り部が三線を持った。
山の上なのでエアでの話だが、何かそういう神託が
降りたようで、左手に握る三線の棹を南東に向け言う。

「辺戸に渡って来た人たちは、海岸沿いに南下したと
 言うように三線を動かして見せるんですよ、奥…かな」

 奥とは辺戸から約9㎞南、国頭郡東部の集落の名だ。

「その先も見せるんです。安田(あだ)、伊部(いぶ)、
  楚州(そす)、安波(あわ)、謝名城(じゃなぐすく)」
90%が森林原野と言われる国頭村内の海岸線にある
 集落名を言う。謝名城は国頭村の南、大宜味村にある。

三線の天(先)はだんだん動き、次に国頭村の西側へ、
そして、本部半島や、現・名護市の地名も出てきた。
「宇喜(うが)、玉城(たもーし)、宇茂佐(うもざ)」

その玉城には、今帰仁城の前身・シイナグスクがある。

このルートは、グスク時代以降のそれを示唆している?
  三線が沖縄に入ったのは、14世紀ぐらいのことだし。
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さらに語られたルートは北部を離れ、南部に及んだ。
「そして、百名へ戻るんですよ」
「戻るんですか…」
 百名にはアマミキヨが造ったという薮薩の浦原がある。
 戻る…という表現に、神託の強いこだわりを感じる。

あくまでこれは、グスク時代に来た新アマミキヨ族の話
だと諭しているのか。いっぽう旧アマミキヨ族が着いた
 のは、まず薮薩の浦原がある百名海岸だと強調している。

「弥生」は新しい時代だったかと、ぼんやり海を見る。

辺戸の宇佐浜貝塚で2000年前の住居跡が発見された
のは1967年のことだったという。石斧や貝匙も出た
 が、画期的なのは土器破片が数多く出たことだった。

それらは、沖縄の歴史編年でいう無土器文化期の土器
 で、つまり奄美大島や九州や本土からの外来品だった。


その第一次調査の後年には、辺戸(遺物散布地)から
カムィヤキが発掘され、それが生産された11〜14世紀
 にも、島々伝いの交易や移住があったことが判明した。
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語り部が伝えたいくつかの集落名は、おそらく、
このカムィヤキを携えて渡来した新アマミキヨ族
 が入植したマク(血族集団のムラ)だったのだろう。

その主だった土地である辺戸のアシムイや、今帰仁
のカナヒャブや、知念森城や、薮薩の浦原が、王府
時代の『中山世鑑』では開闢の御嶽として語られた?

ところで、グスク時代の琉球人の生活スタイルを一変
させたカムィヤキという遺物は3点セットになっていた。


恩納村熱田貝塚からも出た3点セット(博物館展示)
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徳之島産カムィヤキ 、長崎県産滑石製石鍋、中国産の
玉縁白磁。それは南島の特産だった夜光貝や硫黄との
交易品として、喜界島にあった交易センターに関わる
太宰府関係者や、高麗人や宋商人がもたらしたという
話があるが、その海運に一役買っていたのは、石鍋の
生産地・長崎県西彼杵半島を本拠にした家船集団…
ルーツは古代にまで遡る「海人族」だったようだ。

その人々は「戻ってきた」アマミキヨ族ではないか…。


















by utoutou | 2023-06-09 06:53 | グスク・御嶽 | Trackback | Comments(0)
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