夏至の朝は久高島東海岸の伊敷浜でその時を待った。 あいにくの曇りで、太陽は雲の向こう側に昇った。 夏至の翌日は、ブログの順番が逆になったけれども 玉城城で5時37分の日の出を待つ。10分前に到着。 思えば、 10年前、ブログの初回は「久高島に昇る朝日」だった。 玉城城の主郭門に夏至の朝日が真っ直ぐに届くという。 その丸い門は、いつ誰が作ったのか? と興味があった。 しかし、いまそのことはさして重大ではないと感じる。 鉄器を持って渡来したアマミキヨが城壁を造ったのは、 10〜13世紀ごろと分かっている。薮薩の御嶽の「薩」 が示すように、九州南部や奄美からやって来た人々だ。 さらに遡るとここはゴホウラの貝溜まりだったという。 弥生時代に北九州の貝商人が出入りした可能性もある。 もっと遡れば、徐福の一団がミントングスクに居住した という伝承がある。ミントングスクの神壇にある4つの 香炉のうち、右端の「明東加那志」とは徐福らのことだ という。秦の始皇帝が不老不死の薬を求めたので、 大陸から東の蓬莱へ向け船を出してヤハラヅカサに着き、 上陸したと伝わる。玉城はまだ「裸世の時代」だった。 徐福の一団に石工がいたなら2300年前、ここに門を 造るのは可能? 城壁の石積みには時代が混ざっている ![]() 主郭の丸い門を背に玉城台地を眺めた。あるとき、 徐福の出身地は饒波(にーは)と知り驚いたものだ。 前回書いた、外洋からヤハラヅカサまで通じていた 明澪は沖縄で饒波(にーは)とも呼ばれた。いまでも、 例えば、那覇の港へ注ぐ国場川の支流に近い豊見城市 に饒波という地名があり、本島北部の大宜味村には 饒波川が流れていて饒波(ぬーは)という地名がある。 同じく本部町の伊野波は「ぬーは」の当て字らしい。 また勝連半島・藪地の近くに饒辺(ぬへん)がある。 裾礁に食い込んでいる、いや、同時に外洋に開かれた 饒口(ぬーぐち)に渡来人が来たことで拓けた地域だ。 ☆ ところで、アマミキヨ渡来の地として名高いこの百名 の饒口(ぬーぐち)は玉城城の「東」に位置している。 文明だけでなく、災いも外洋から入ったこの立地で、 城門をまっすぐ東方に向けて造ったりはしないだろう。 玉城城の南側は急峻で登れない。西南からは登れた。 もっとも登りやすい東北には二の郭と三の郭があった。 今次の大戦後に破壊されたというが、さらに、その 低地には城下町があった。現在のゴルフ場だ。東北に 向かい扇型に広がるその台地こそがアマミキヨの里。 ☆ アマミキヨは玉城の前に、まず久高島に着いたという。 つまり故地は夏至の朝日の昇る東北東の久高島。 そのため「ミントンは寅の盤」と祭祀で重要視された。 そんなわけで、 この門は夏至の日の出に向いていると考えるに至った。 5時43分、 日の出のときはくすんでいた空が明るくなってきた… ![]() ![]() ![]() ![]()
by utoutou
| 2023-06-28 10:21
| グスク・御嶽
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Comments(1)
> イナルさん
こんにちは。私もこれまで何人かの神人さんに聞いたところ、答えは「盤」と「番」が半々といったところでした。何年か前に、「自分は世界盤を持たされている」とおっしゃった方が、「盤とは祈りの対象」と説明したのが納得できたので、以来「盤」の表記を使っていたのですが、昨日、語り部さんに聞いたところ、「番が正しい」との意見。「ミントンは寅の番」とは、「十二支でいう寅の方向(夜明けの刻)の祭祀を司るという意味」とのことでした。交代制の順番、というより、数ある神事の中の担当、といった理解でよいかと思いました。
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