(前回ブログの最後に)日下部氏は日奉部や日置部といった太陽祭祀を司る部民になったが、測量に長けた彼らの末裔が、時を経て、新しいアマミキヨとして再来すれば、久高島からこの ↓玉城城にレイライン(太陽の道)を描くことは、さして難しくないだろう。 と書いたが、少し補足して記しておきたいことがある。

〈その1〉彼らは城壁を削る鉄器を持って渡来したと いうが、「アマミキヨの弟はカニマン(鍛冶屋)」と いう伝承があり渡来後に道具を整えた可能性は大きい。
〈その2〉新アマミキヨは、稲作技術を携え南下した。 それがグスク時代の始まりで、持参した3点セットとは カムィヤキ・中国製白磁・滑石製石鍋とされるが、 その本拠・喜界島の遺跡から製鉄の炉跡が出ている。 集団は、製鉄鍛治技術を加えた4点セットを携えていた。 〈その3〉琉球国初代王とされる舜天(ソントン)は 「若ティダ(朝陽)」と呼ばれ、その御嶽は玉城にある。 源為朝と共に渡来した集団が、太陽信仰をもたらしたか。 語り部はその集団を南九州から先祖帰りした人々と視る。
つまり、先祖(旧アマミキヨ)もまた太陽信仰によって 東へと移動して、この大陸の先の絶海の島に渡来したが、 これは朝日夕日の東西を崇めるニライカナイ信仰に依る。 と、ここまで書いて、あの問題はどうするのかと悩む。 他でもない玉城城・天頂の御嶽(テンチヂアマチヂ)のこと。琉球国王が雨乞いの神事をした至高の御嶽。 これはニライカナイとは違うオボツカグラ信仰に依る。 ニライカナイは東西信仰だが、オボツカグラは天神信仰 で、それは大陸から渡来した集団がもたらしたのだろう。 玉城城には、ニライカナイとオボツカグラという ふたつの信仰の姿が、ハイブリッドに存在している。 まるで、琉球王国の成り立ちの秘史を示すように思う。 ☆ この夏至の翌日、玉城城の朝日を見てから薮薩の御嶽に参り、浜辺の茶屋でモーニングコーヒーを飲んだ後、 奥武島ハーリーへ。職域チームの対抗戦の最中だった
ハーリーは数百人の観客と港の出店で賑わい、コロナ前よりエキサイティングな印象。目の前で激戦は続いた…が、直後こちらのチームは、バランスを失い転覆した。大きな声援が響くなか、ゆったりと救護船が近づいた
奥武島ハーリーは、400年前に朝鮮半島を発ってここ奥武島の志堅原に漂着して住み着いたという 「新羅」の人々との交流を記念して始まったと伝わる。 玉城城のテンチヂアマチヂといい「新羅」といい、 大陸や朝鮮半島との歴史を色濃く残すのが、ここ玉城。
by utoutou
| 2023-07-05 05:00
| グスク・御嶽
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琉球の始祖と伝わるアマミキヨとは誰か。その痕跡を追う旅ログ。南城市玉城で出会った語り部と共に謎解きする、古代琉球の神々の事々。写真・文章を転載の場合はご一報お願いしますm(._.)m
by utoutou
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