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天孫氏は火の一族〈126〉球磨の隼人

『曽の隼人』(霧島郷土史研究会、平成23年刊)
という本を、旅先で購入したのは2年前の11月。
霧島市の隼人塚史跡館か鹿児島神社のどちらかで。
 
「曽」の隼人…と銘打っているところにソソられた。
「球磨」の隼人…と区別しているらしいのはなぜ?
霧島市の郷土史として、熊本県と一線を画したのか?

記紀が描いた南九州の先住民族・熊襲とは「球磨」
と「曽・襲」の地域を表し、それは、肥後の南部、
大隅の北西部、日向の南西部を併せた一帯のこと…
という認識でいたのだったが、本の題名に「曽」と
あえて冠したのは、他の地域との違いがあるからか
…と感じたのが、その本を購入した動機だった。

表紙にあしらわれた写真は、曽の本拠地であり、
天孫ニニギノミコトの降臨地となった霧島山だ。
タイトルの背景に宮中儀式となった隼人舞の写真が。
サブタイトルに「大隅国1300年を迎えて」とある
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表紙を改めて見て、つくづくと思う。
「これは大和朝廷の進軍と隼人の抵抗の記録」だと。

「大隅国1300年」とは、713年の大隅国設置を指す。
それ以前、日向国という大地域に豪族が割拠していた。
私が認識していた「熊・曽(襲)」がこれに当たる。
ところが、日向国を分け薩摩国が新たに設置された。
という経緯を経て、遂に大隅国が置かれ国司が来た。

 720年、隼人は国司を斬首して最終抗戦に突入する。
 主戦力・犠牲者となった大隅隼人が「曽の隼人」だ。

隼人資料館で見た図↓は、統一国家への動きに抗い
追い詰められるように南下した隼人勢力の変遷図か。
同時に、ヤマト進出(緑色部分)の歴史でもある
天孫氏は火の一族〈126〉球磨の隼人_a0300530_12583716.jpg








いっぽう、「球磨の隼人」は抵抗しなかった。
平定に出向いたヤマト天皇軍と戦い抜くことなく、
逃げ切り、あるいは順化していったのではないか。

「(ヤマトタケルに)殺されたわけではない」と
言って語り部の前に降り立った「日高見の王」は、
頭に、「金の渦巻き装飾のある冠をつけていた」。
「金」をヒントに考えられるのは、大陸との交流だ。

球磨族は、肥国(熊本県)南部を流れる球磨川の
流域にいたというが、球磨郡免田地方(現あさぎり町)
にある才園(さいぞん)古墳から金の鏡が出ている。
1938年国指定重要文化財になったが、90年代に
町の調査団が中国の研究者に見てもらうと、三国志
時代(3世紀)に江南地方(呉の地域)で造られた
りゅう金獣帯鏡と判明。出土例は日本で3枚、
中国でも10枚しか出ていないという
天孫氏は火の一族〈126〉球磨の隼人_a0300530_11390072.jpg





考古学者の森浩一氏は、次のように記している。
※『ヤマトタケル〜尾張・美濃と英雄伝説』より
(要約)
☆長江流域の華中の鏡が狗奴国にもたらされていた
ということは、弥生時代以来、熊襲は連綿として
優れた独自の文化と交流圏を持っていた。

☆才園古墳にあった鍍金鏡は、この地方の人々が
 大切にして伝世し、6世紀の古墳に埋葬したものか。

☆その人々を、記紀では正々堂々とした戦法では
  勝つことのできない獰猛な「熊襲」として描かれた。
  女装したヤマトタケルの熊襲襲撃の場面がそれだ。
つづく…








by utoutou | 2023-10-13 10:54 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)
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