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琉球玉依姫〈15〉隠し続けた香炉

週末、都内ではソメイヨシノなどの桜が満開だった。
2ヶ月経ち、ようやく沖縄の春に追いついたようだ。
那覇でカンヒザクラに足を止めたのは、2月10日の
旧正月。新都心・銘苅のガジュマル公園でのことだ。


 数日ぶりの晴天、男性たちがゲートボールをしていた。
後ろに安岡中学校(那覇市銘苅map)の校舎が見える
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天久から首里方向へ車で10分、ガジュマル公園と
安岡中学校の校庭あたりに、王朝時代、多和田之嶽と
 多和田火の神があったという(火の神は寄宮に移転)。

天女伝説の残る銘苅のシグルクガーから北へ、西流
する安謝川までは登り坂で、ここ多和田原の頂上に
にあった多和田之嶽は『琉球国由来記』(1713年)
が記す天久七嶽のひとつ。神名は「アムトツカサ・
ヨキガラ・キミノオイベ」。ヨキは斧、ガラは作る、
キミは神、の意。カニマン(鍛治神)の御嶽だった。

多和田之嶽だけではない、それこそスグロク之嶽、
銘苅之嶽に、もれなく鍛治神が祀られていたという。
かつて天女シリーズにも書いた「銘苅は古代産鉄地
銘苅川沿いの産鉄遺跡」。ここに来ると、鍛治神と、
 後に天女として語られる神女の残影をふと感じたりも。

往古、天久に渡来したアマミキヨは3、4世紀になる
と、西海岸沿いからここ銘苅の地に移住して稲作を、
グスク時代12世紀には砂鉄による産鉄を生業とした。
また中国製陶磁器なども出土、盛んな交易も窺える。


多和田(たーた)地名は、太田(たーた)の転化。
多和田ノロはガジュマルの下で村の繁栄を祈ったか
琉球玉依姫〈15〉隠し続けた香炉_a0300530_15500501.jpg







ところで、
薩摩による琉球侵攻の後、時の摂政・羽地朝秀は、
切迫する琉球の経済を立て直す政策を打ち出した
(羽地仕置)が、祭祀組織の見直しもそのひとつで、
真和志村に11ヶ所あったノロ殿内(ノロの神屋)
 のうち、3ヶ所を残し統廃合したという記録がある。

天久ノロ殿内も廃止された。が、多和田ノロ殿内に
統合されたものの、天久ノロは代々の香炉を無事移管
したと王府に偽の報告をし、自宅の神壇に隠し祀った。
それも今次の戦後まで続いたというから、信仰は尊い。

それにしても、
アマミキヨの里・天久のノロ殿内が、なぜ廃屋に?
語り部に聞いてみると、こんな答えが返ってきた。

「天久は首里王府の目の上のタンコブだったからでは。
琉球に残る古代海人族の存在は、薩摩の背後にいた
ヤマトにとっても、脅威だったのだろうと思います」

天久ノロとして王府から初めて任命された大主乙樽
から、数えて9代目ノロの時代の混乱だった。
代々の香炉は玉依姫にまで遡ると、語り部は言う。
祖は賀茂氏というが、私の理解はまだ追いつかない。
   

ガジュマル公園から振り向けば、新都心公園。
休日の家族づれが、歓声を上ながら遊んでいた
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by utoutou | 2024-04-09 10:54 | 最終章 | Trackback | Comments(1)
Commented by utoutou at 2024-04-10 11:39
> 匿名さん
こんにちは。広大な副都心公園の端にあるランドマークのような木ですよね。昔、「国のはじまり銘苅国、川のはじまり銘苅川」と言われたという銘苅湿地の景色はどんな感じだったんでしょうか? 戦中戦後から米軍用ハウスの時代も含めて、銘苅のガジュマルからの定点観測のような記録があれば見てみたいですね。反対に動かされた香炉も、何かしら変わりゆく環境から大切に逃がされていたのかと思うと、人の心の拠り所としてはガジュマルと同じような存在なのかなと思います。
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