連休前に那覇市天久を訪れたのは、ちょうど 清明祭の時期にあたるためだ。普段は人の出入り 少ない天久台地でも、伐採や清掃が行われるので 歩きやすいはずだと、語り部に聞いたからだった。 天久の御嶽へは、マンションの狭間の道を登る。 予想通り、祭祀場の周辺は綺麗に整備されていた ![]() 天久の殿のある祭祀場全貌。奥(北)に建つ赤い 屋根の建物は天久のランドマーク? 大浜第一病院。 比べると、丘陵は12階建ビルの5階程度の高さか。 写真手前に写る拝所が、「天久の殿(トゥン)」 ![]() 東シナ海を背に祀られている「天久の殿」。 別名・按司添御嶽とも呼ばれてきたという。 天久マキョ(マキョ=同族集落)の人々は、古来 この腰当(クサティ、村の祖神)の元で暮らした ![]() 昭和の古老による『アミク村の歴史と民俗』は、 このサンゴ礁台地について次のように記している。 〜 確かに、この地には、7〜18世紀初葉まで、 天久マキョがあった 〜 〜本島各地の宗家から、日本や各離島へ遥拝する 香炉が、所狭しとばかり無数に安置されていた〜 つまり、逆に言えば、 往古、天久に定着した三宗家が作ったマキョは、 18世紀初葉になると、新しい村として東方 (現在の新都心地域)に強制的に移転させられた。 当時、三司官・蔡温が薩長の役の後の退廃した経済 を立て直すための内政改革を行っていた。その検知 に伴い周辺の住人も離散。天久は無人の地となった。 伝承によれば、王府は村を移転させるだけでなく、 祭祀・信仰を伝える巻物を焼き払う国令を出した。 地頭に焼かれた巻物は、邪馬台国の末裔…つまり 卑弥呼一族の来歴についても記されていたのだと という伝承もある。だからこそ香炉は隠されたと。 その天久ノロの香炉については、 が、香炉は卑弥呼まで遡ると伝わっていた。 語り部の言う「天久は首里の目の上のタンコブ」 という伝えの真意は、おそらく琉球王朝より 古い天久という土地の歴史ゆえだったのだろう。 卑弥呼の一族が、かねてから語り部の言う賀茂氏 ・秦氏ならば、卑弥呼はその姫ということになる…。 祭祀場の先端に建つ「火の神の祠」。拝礼する方向 は奄美大島となっているそうだ。台地の地形は続く が、ここでいったん切り立つ崖(バンタ)となる ![]()
by utoutou
| 2024-05-02 13:43
| 最終章
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Comments(1)
> 匿名さん
トキ双紙も、そうですよね。時代が下って明治の頃にも不敬罪で捕まった人が多くいたと聞きますから、口を閉ざすというか隠さざるを得ないことは多かったのではないでしょうか。随分と時が経ちましたけど、やがて日が東から昇るように自ずと明らかになるのではないでしょうか?
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