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琉球玉依姫〈23〉まるでウチカビ

琉球で無文銭を見たと帰国報告をした明の冊封使は
郭汝霖だけではなかった。尚元王の前、尚清王代の
使者・陳侃(ちんかん)も、1534年にこう記した。

「国を通じて、ただ日本所鋳の銅銭を用いる。
薄小無文で、十枚で一文に当たり、千枚で百文に
 当たる。ちょうど宋末の鵞眼銭や蜒誕銭に似ている」
(原田禹雄・訳注『陳侃使琉球録』)

陳侃と郭汝霖、16世紀に来琉した二人の冊封使は、
無文銭は「日本で鋳造された銅銭」で「宋の…銭
に似ている」と記録した。いっぽう16世紀以前、
日本で鋳造された錢貨は、模造銭と無文銭だった。
(宮城弘樹『琉球出土銭貨の研究』)

 語り部が視た鳩目銭のようなお金が、日本国内で
 模造された「宋銭」もどきなら、生産地はどこか?
  首里城の西のアザナ跡で枝銭が出土したというが、
まだ定説とはなっていないようだ。では、どこで?
もっとも可能性があるのは? と、福岡の博多を思う。
 中世、模造銭が造られた都市は、鎌倉、京都、堺、
  博多。博多と琉球と大陸は古来の南島路で繋がる。


1年半前に参った櫛田神社は、博多遺跡群にある。
遺跡は弥生時代に溯る。中世は貿易港の波打ち際
(そのときの「博多遺跡群」はこちら
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こちらは、参拝の後で向かった祇園駅前の案内板。
地図上の御笠川と那珂川に挟まれた地域(旧市街)
がほぼ博多遺跡群の域にあたる。櫛田神社に赤丸を
付けたが、その東の唐房(宋人街)跡の周辺から、
銭貨を鋳造したことが分かる遺物が発掘されている
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神社の東とは現在の冷泉町あたり。その地域には
12〜15世紀に銅製品の工房がいくつかあったと、
福岡市教育委員会の調査報告「博多57」は記す。


ところで、きょう改めて調査報告書に目を通して、
あのとき目が釘付けになった箇所を思い出した。
右の図はまさに銅銭(無文銭)を造る鋳型だが、
あのときも思ったものだ。
ウチカビに似てる、いや、これはまるでウチカビだ。
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先日、那覇で語り部と鳩目銭について話していた
 ときもそう言えば、ウチカビ云々と呟いていた。
「ウチカビの柄は鳩目銭、無文銭ですよね」と。

ウチカビとは、打ち紙。紙銭のこと。一般に死後の
世界の通貨と信じられ、藁や古畳などを原料に
漉いた黄色紙に槌などで叩いて銭型を付けたもの。
これを焼いて祖先供養する習慣は中国起源…と、
『沖縄大百科事典』にはある。


旧正月や旧盆の頃、スーパーに並ぶウチカビ(手前)
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QABの番組で特集された「ウチカビの造られ方」
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by utoutou | 2024-06-01 21:17 | 最終章 | Trackback | Comments(0)
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