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琉球玉依姫〈27〉倭人の航路

前回ブログから、かれこれ10日が経ったが、
「あの波の上宮の写真が、空撮のように見える」
という声を聞いたので、種あかしにもう1枚。
 波の上橋の歩道から昨年10月に撮ったもので、
季節柄、波の上ビーチには人影はまばらだった
琉球玉依姫〈27〉倭人の航路_a0300530_13000065.jpg








ところで、前回はこんなことを書いていた。
〜那覇港に注ぐ国場川の支流に寧波川(ねはがわ)
が流れており、また同じ名前の町・中国浙江省
の寧波(ねいは)は紀元前からの港湾都市だった。
閩と琉球の関係は、弥生時代から深かったのかも。
東シナ海を渉る海洋民は、既に存在したと思う 〜

縄文・弥生時代でも東シナ海を渡った海洋民は
いたかもしれないという柳田国男が『海上の道』
に著した仮説を思い出していた。宮古島の宝貝
はそれほど古代中国人を魅了したと。やがて、
 彼らがもたらした稲種や稲作技術は北上した…。

しかし、その仮説はいまでは覆されている。
 閩越の倭人(後の弥生人)は東シナ海を渡らず、
黄海に突き出た山東半島沿いに北上する航路を
取った。さらに朝鮮半島沿いを南下、対馬海峡
 から九州へ、南島へ、というのが現代の定説だ。
 

遣唐使の時代でさえ、南島から明州(寧波)へと
東シナ海を渡る南路では半数近く遭難したという。
2年前に訪れた鴻臚館(福岡市中央区)の展示より
琉球玉依姫〈27〉倭人の航路_a0300530_10014725.jpg








 それでもやっぱり、柳田国男の仮説は魅力的だと、
いま改めて思う。理由は少し前の「蝶の龍神」に
書いた蝶形骨器だ。ジュゴンの骨に蝶形の彫刻を
施したペンダント。それが出土するのは種子島の
 広田遺跡をはじめとする、南の島々だけだという。
九州以北には見られない「蝶」が、閩と海を隔てて
 向き合う南島からしか出土しないのは、なぜか…。


400年前の嘉手納貝塚から出土した蝶形骨器。
お守りなのか…? 沖縄県立博物館サイトより拝借
琉球玉依姫〈27〉倭人の航路_a0300530_13234935.png





蝶形といえばやはり閩だ。7千年前からという
河姆渡(かぼと)遺跡からの出土品にも、有名
双鳥朝陽象牙蝶形器がある。ふたつの「蝶形」
が示唆するのは航路か、民族か、古の信仰なのか。

ブログを読んで、語り部はこんなことを言った。
「マサンという土地が、ヒントになるらしいです。
マサンはどこにありますか?」
「マサン…マサン、マサンですよね…マサン??」
 あぁなるほどと気づくのに、丸1日かかった。
つづく。



by utoutou | 2024-07-19 19:43 | 最終章 | Trackback | Comments(0)
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