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琉球玉依姫〈30〉ふたたび卑弥呼

前回のブログで話題にしていた『魏志倭人伝』
が成立した時代は3世紀の後半。その邪馬台国の
人々が琉球に里帰り移住したという伝承がある。
その点をもう少し詳しく知る術はないものかと、
実は、この最終章を始めた当時から考えていた。

その伝承を深めずしてこのブログは終われない
 という、最終章ならではの切迫感もあった(笑)

過去ログ「邪馬台国とベリッシマ」にも書いたが
琉球に残る邪馬台国にまつわる伝承は、こんな話。
〜九州で栄えた邪馬台国と九州に新たに設立された
王朝との争いで、邪馬台国は破れ、国人は北は
  近畿に、南は九州、大島経由で沖縄に逃れてくる。
これが新アマミクと呼ばれ、中国の魏の国と交易
して稲作文化を持って来た人達です。〜
※『天久村の歴史と民俗』より

マボロシの邪馬台国…語り部の見立てによれば、
それは火の国(熊本)にあった。なぜなら、
 その地は、朝鮮半島の南部に1〜6世紀に栄えた
  加羅諸国と、琉球諸島を結ぶ海路の要衝地にある。
海路とは縄文時代から琉球諸島の子安貝や宝貝を
  大陸へ運んだ、隼人族の「貝の道」のことだろう。

 その海路を渉って、後にヤマト古代豪族となった
 秦氏や鴨氏の一部も琉球に渡来したと、語り部。
さらに視界を広げれば、大陸の江南地方や南太平洋
 の島々を行き来する海人族の都は、琉球だったと。

そんななか再び沖縄に旅をした。那覇に5泊6日。
旅の最後、那覇空港から羽田へと離陸した機体は、
那覇港の上空へ。嘉手納基地との関係で低空飛行
は続き、お陰でアマミキヨの里・天久が見渡せる
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中央右、緑の稜線が天久。邪馬台国伝承の舞台。
また、その奥に見える丘陵が首里。左手一帯が
 浦添の丘陵。旅中、沢岻(たくし)に足を運んだ。
 その沢岻ではヒミコ神の拝所に参拝。詳細は後日。
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古代について沖縄ではあまり的確に語られない。
貝塚時代の前半、3〜4世紀は「クバぬ葉世」。
古代部落マキョの時代、4〜12世紀は「神ぬ世」。
グスク時代以降、15世紀以降は「按司ぬ世」。
後世から見れば4世紀は「神世」、先祖は神だ。
『魏志倭人伝』が語られないのも、同じ理由か。


那覇新港の上空を飛んだ3分後に、見えたのは
読谷村・残波岬? 宇座という名前のビーチがある。
ご存じ、現在は高級ホテルが点在するリゾート地。

 宇座に続く渡久地ビーチは薩摩による琉球侵攻の、
そして今次の大戦における米軍上陸の地だった。
地形が侵攻の適地だったのか? と思うが、「宇」
 の字を含む地名は、宇佐など渡来海人族に因む。
旅の2日目は、その宇座ビーチを訪れてみた
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那覇空港を離れて5分。本島北部・やんばる。
伊平屋島と伊是名島を眼下に? 夕景が美しい
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この旅の最後の日に会うことができた語り部に、
私はこれまでも何回かした質問を繰り返した。
神武天皇の母・玉依姫は伊平屋島のクマヤー
洞窟で出産したという伝承について。
「くどいようですが、あれって本当なんですか?」
 語り部は「本当だと思う」といつも通り答えた。
 そうすると、
 やはり卑弥呼も神武も琉球の人ということになる。


by utoutou | 2024-08-11 19:10 | 最終章 | Trackback | Comments(0)
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