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琉球玉依姫〈32〉ヒミコの別名

浦添市沢岻の御嶽廻りのブログを投稿して1週間
以上が経つので時差が生じたが、直後に語り部
 から電話、「思い出したことがあります」と言う。

「ヒミコのことなんです。ヒミコとは、
琉球では古来、ヒミカと呼ばれる神女でした」
「ヒミコ…ですか。あの卑弥呼のことですよね」
「はい。何十年かぶりに思い出したんです」
 語り部は言う。いつもより少し早口な気がした。

「火(陽・霊)と水と風。それでヒミカです。
ヒミカを意のままに操る霊力(しじ)を持つ神女」

天孫氏は火の一族。だからヒミコ、いや、ヒミカ
 の末裔は火の国から琉球に里帰りしたのだったか。
 その里帰り伝承は、西海岸の天久に残るものだが、
 天久と沢岻は安謝川と支流の沢岻川で繋がっている。


語り部がヒミカについて思い出したのは、沢岻
 集落・西端のめじろ公園にある「中の殿の御嶽」
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左に、ヒミコ女神。
なぜカタカナ表記で、なぜ昭和58年の建立なのか?
不思議に感じていたが、妙に腑に落ちた思いがする
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沢岻(たくし、MAP)について改めて調べる。
〜浦添市の字。北方の丘を背に発達。
金満御嶽があり、古くから鍛治や農耕が興っていた
とみられる。かつては沢岻ターブックワがあり、稲作
が盛んだった。現在は那覇市のベッドタウン化して
 いるがサトウキビ兼業農家も多い。昭和薬科大学付属
  高等学校(中略)がある。〜「沖縄第百科事典」
  ※ターブックワとは田圃を意味するウチナーグチ。

同じ事典には、沢岻グスクの解説もあった。
〜 浦添市沢岻北側、標高70mの石灰岩丘陵上に立地
するグスク時代の遺跡。東側に金満(カニマン)
御嶽、西側に公芳(クボウ)の御嶽があったが、
採石、宅地造成などで西側は破壊された。
 中国陶器、須恵器、古瓦およびグスク系土器が出土 〜

さらに調べると、グスクがあったわけではない模様。
グスク時代の遺物は出たが、沢岻遺跡が正しい呼称
のようで、住宅や墓地の開発で集落の御嶽や祭祀が
 消えゆくのを案じた人々がこの拝所を建てたようだ。

中の殿の御嶽の横に、大きな石碑も立っている。
「天続々女神、国じく」と刻されている意味を、
考えていたとき、語り部から電話が来たのだった
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天続々女神とは、
『琉球祖先宝鑑』(昭和8年刊、慶留間知徳)に
 載る「長女 天続首大神」のことだろうと推察。
〜この人は沢岻村の西の天雨続御嶽の内に埋葬
 せらる 〜との説明。この地に眠る御先祖のようだ。

 その前ページには、父親について記されている。

沢岻世主
〜 在所は浦添沢岻村根屋当間と云う家也。〜
詳しくは次回につづく…が、
沢岻世主の曽祖父は天帝子、高祖父は天太子と。
天帝子とは、安摩弥姑・志仁礼久の子である。
 アマミキヨとヒミカ(卑弥呼)が繋がってくる気配。

by utoutou | 2024-08-31 20:06 | 最終章 | Trackback | Comments(0)
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