人気ブログランキング | 話題のタグを見る

南島の瀬織津姫〈9〉星を崇めた先住族

紀伊国一ノ宮日前神宮・国懸神宮(和歌山市秋月)
への初参拝から何年か経つが、駅を降りると出会う
社標の前で、ふと深呼吸をしたことを覚えている。
境内は1万坪あるという。5月の朝、空が高かった
南島の瀬織津姫〈9〉星を崇めた先住族_a0300530_11112695.jpg







そのときのブログは「神の名はスサノオ」だが、
なぜこうして改めて写真を引っ張り出しているか
と言えば、前回のブログで書いたように、語り部
が、知人から和歌山みかん3ヶを贈られたことが
きっかけだったが、日前国懸神宮の鎮座するここ
の旧地名・名草(奈具佐)には、おそらく星の
信仰があったのだろうと私自身も考えていた。

星の信仰は、つまるところ太陽・月・星の信仰だ。
古代名草の女性首長・名草戸畔(なぐさとべ)は、
神武天皇の東征神話においては殺されたことに
なっており(過去ログは「神武は殺さなかった」)
その亡骸は3ヶ所に分葬されたという。なぜなら
戸畔と呼ばれる女性首長のいた先住民族には、星
・太陽・月を三光神として崇める信仰があったの
 だろうと語り部は解く。日神信仰より以前の話だ。


一の鳥居を入ると参道はやがてT字に東西に延び、
西に日前神宮、離れて東に国懸神宮が南面して在る。
朝7時40分に着いたとき、朝陽は右から射していた
南島の瀬織津姫〈9〉星を崇めた先住族_a0300530_11122323.jpg







摂社・中言(なかごと)神社に、名草姫と名草彦
が祀られている。改めて神宮HPで由緒を見る。

〜 祭神である名草彦命は、天道根命を初代国造にして
五代目にあたり、また夫婦神として名草姫とご一緒
に中言神社として奉祀されております。名草郡の
地主の神として崇敬され(後略)〜

夫婦の地主神とはいえ、合祀のかたちではない。
瑞垣内の左に名草姫、右に名草彦が祀られている
南島の瀬織津姫〈9〉星を崇めた先住族_a0300530_11094958.jpg







夫婦神でありながら、二祠を並べての祀り方は、
知我麻神社(名古屋市南区本星崎町)と同じだ。

名鉄本星崎駅の西に鎮座。南面する星宮社の丘に
上(かみ)と下(しも)の知我麻神社が南面して
並んでいる。ヤマトタケルの妃・宮簀媛の父神と
される乎止与命、母神の真敷刀尊(マシキトベ)
南島の瀬織津姫〈9〉星を崇めた先住族_a0300530_06371006.jpg





「七星が降り、神託があったので社を建てた」と
いう縁起のある星宮社(祭神は天津甕星神)の丘上に
祀られている真敷刀尊(マシキトベ)にはまさに
星を生む母神の神格が感じられるが、名草戸畔も…?

 琉球の民間伝承では、御天父親加那心は北極星。
また、御天母親加那志はその輔星に例えられる。
   御天の母神の亦名は、御星親神(みふしうやがみ)。
  天に輝く星々を生む母神という意味と言われている。


by utoutou | 2025-05-09 11:27 | 最終章 | Trackback | Comments(10)
Commented by utoutou at 2025-05-25 08:22
> 豆さん
こんにちは。
ヤハラヅカサにはアマミキヨ渡来伝説が、久手堅にはナーワンダーグスグがありますからね。
Commented by utoutou at 2025-05-28 19:55
> 豆さん
いつだったかのブログに記しましたが、一人でのクライミングは危険かと思います。梅雨時なら岩肌が滑るのでなおさらです。「久手堅の大アカギ(場所は調べてくださいね)」からナーワンダーグスクを遥拝することをお勧めします。
Commented by utoutou at 2025-06-18 17:31
> 豆さん
こんにちは。そうですね。久手堅の大アカギは公民館の前の道を進むとすぐに分かります。
Commented at 2025-06-20 17:57
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2025-06-21 07:55
> 豆さん
そうですか。よかったです。久手堅の読みのクデとはオコデ(=ウチナーグチでクディ、門中の祭祀を行う女性の呼び方)のことだと、斎場御嶽を世界遺産にする活動をされていた故新垣さんにお聞きしました。公民館の前には琉球王朝時代のノロの踏み石(くだみいし)も残っていますし、大アカギの道のほうがかつてのメインストリートだったように感じられますね。
Commented at 2025-06-21 21:47
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2025-06-27 20:19
> 豆さん
大アカギのそばの川の源はナーワンダーグスクなのだろうと思います。久手堅からグスクへ登ったとき、草を掻き分け進みながら、左側に川のせせらぎを聞いていた記憶があります。考えてみれば、玉城は台地ですから低地に川が流れ込むわけで、そこが琉球の稲作発祥地となったのも当然にことのように思います。
七田原(玉城の稲作伝承)のことはこちらに少し書いています。
https://mintun.exblog.jp/21116554/
Commented at 2025-07-05 09:37
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2025-07-07 11:14
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2025-07-07 11:39
> 豆さん
こんにちは。親慶原で思い出すのは、琉球ゴルフ倶楽部の門の中にある竹山(だきやま)のアジシー(古墓)です。ブログはこちら https://mintun.exblog.jp/19396534/
昔ゴルフ場の地質調査をされたという学者さんに聞いた話ですが、玉城城の近くにはガマがあって水が流れており、竹山を通って垣花の多良川工場近くに繋がっているのが分かったそうです。そこからさらに親慶原へ、地下水脈は繋がっていたのでは? とのことでした。

名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

<< 南島の瀬織津姫〈10〉いま再び... 南島の瀬織津姫〈8〉熊野と琉球 >>