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南島の瀬織津姫〈22〉聖なる三神山

久高島の西に見える「聖山ふたつ」とは、
斎場嶽(さはやたけ)と須久名嶽(そこにやたけ)
その二山が一対で崇められたのだと分かるのは、
『おもろさうし』巻10-514。こう始まっている。

〜 斎場嶽(さはやたけ) 御嶽(みたけ)
ゑよ ゑ やれ 押せ
又そこにや嶽(たけ) 御嶽(みたけ)〜

「斎場嶽、そこにや嶽でお祈りをしますよ」
という意味だという。「よ ゑ やれ 押せ」は
 囃し言葉、聞得大君の就任儀礼の航海を謳い、
「東方に歩みわ てだが穴に歩みわ」で終わる。

ところで、この写真は、
2年前の久高島で見学した角力大会で撮った。
  斎場御嶽と、須久名御嶽(守礼カントリー内)
本当は別々の山なのだが、一体となって見える
南島の瀬織津姫〈22〉聖なる三神山_a0300530_13460864.jpg








それゆえ、前回ブログで、ふたつの聖山が鮮明に
見える虹の写真を眺めるうち夏が過ぎてしまった。

 そしていま秋に思うのは「三つ目の聖山」のこと。
沖繩本島の知念半島と相対する久高島や津堅島の間
には、超古代、300mほどの山があったという。
 それが1万年前に陥没して現在の海峡ができたと。
つまり三つの聖山が本島南部の海域に聳えていた。

世界遺産でもある斎場御嶽は多くの人が知る、
琉球王国の至高の聖地だが、須久名御嶽も、
『おもろさうし』で詠われる国家的な神山だった。

『南城市の御嶽」(南城市教育委員会)には、
次のように説明されている。(要約)
・知念半島のほぼ中央に聳える山で、標高166.8m
・山頂にウードーと呼ばれる拝所がある
・戦後の早い時期に、山頂は米軍によって削られ…

つまり、古来の山の姿はもっと高いものだった
南島の瀬織津姫〈22〉聖なる三神山_a0300530_15525128.jpg








並び称された時代があったかもしれない
「聖なる三神山」を思うと、秦の国の方士だった
徐福とその一団の琉球渡来伝説が思い出される。
 今から2200年前、BC200年という古代、徐福と
その一団(百工)は蓬莱島を求めて航海に出た。
古書に曰く、その先に「三神山」があったという
南島の瀬織津姫〈22〉聖なる三神山_a0300530_13045160.jpg






語り部にそう話すと、何気なく言ったものだ。
「『琉球祖先宝鑑』に、徐福は明東思加那志と、
また子孫は百名大君や中村渠大君と載っています。
ミントンは明東のこと、徐福はアマミキヨです」 

徐福のことについては、ブログ開設当初、何度か
書いたが、肝心な伝承は抜けていたかもしれない。
 徐福の系譜がそこまで根付いているとは思わず…。






by utoutou | 2025-10-07 10:25 | 最終章 | Trackback | Comments(0)
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