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南島の瀬織津姫〈25〉徐福は来た

旅の3日目の朝、久高島西海岸の漁港脇から
5㎞離れた沖縄本島の知念玉城台地を見る。
標高190〜130m、ギネス級の一枚岩だと
地質調査の専門家が言った琉球石灰岩の稜線美。


中央よりやや左に、台地の南端にあたる玉城城
(標高180m)と、その麓にアマミキヨの住居趾
と伝わるミントングスク(標高115m)がある
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グスク名のミントンは、漢字表記で明東と書く。
その由来は「陽の昇る明るい東の方向」と
いうのが一般的な解釈だが、語り部の意見は違う。

「古代中国で王が祭祀を行ったと言う
明堂(神殿)が語源だと思います。徐福の仕えた
秦の始皇帝も、明堂で即位したといいますからね」
〝ミントンは殿(トゥン)のはじまり〟の諺もある。
琉球の御嶽を祭祀場(神殿)にしたのは徐福だと。

その伝承はすっかり途絶えてしまっている
ようだけれど、ミントングスクは沖縄の考古編年
でいう貝塚時代後期前半の遺跡でもある。
それは約2200年前から2000年前までにあたり、
徐福の一団が渡来したとされる時期に一致する。

徐福は百工(技術者)を連れて来たというが、
上陸地ヤハラヅカサのある海岸は、百名という。


久しぶりに参ったミントングスグで、
墓地だけではない、祭祀場(殿)の痕跡を確認する。
石段を登った先に火の神(日月星の拝所)があり、
西にニライカナイ、東に久高島への拝所がある
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ミントングスクの神壇でutoutou(合掌)。
香炉は、左から、シルミチュー(シネリキヨ)、
アマミチュー(アマミキヨ )、天孫氏、
そして、右端がミントン(明東)の銘という。

総称してアマミキヨ (渡来してきた人)には、
その4つの種族がいて最後が明東(徐福)となる。
天孫氏とは、琉球古代王朝の系統を指している
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明東天孫氏をブログに書いてから10年が経つ。
にも載せたが、俗に「長浜系図」と呼ばれる
「琉球国三山王各世流系旧案録」には、
明東天孫氏が、アマミキヨ ・シネリキヨの
直系の子孫として明記されている。

系図の作者は長浜親雲上と言われ、琉球王府
の系図座に関係する人物だったとの伝承がある。
つまり、「長浜系図」の成立は王府時代に遡る。

ミントングスクから徐福伝承が消えた理由の
 一端は、もしやそこにあるのではないだろうか。
明治初期、琉球国の併合を目論む政府にとって、
当時の清国との通交関係は断ち切るべき課題、
明東天孫氏はその根源だった。
つづく…。


ミントングスク内のアマミキヨ の墓
南島の瀬織津姫〈25〉徐福は来た_a0300530_11391296.jpg







by utoutou | 2025-11-03 20:12 | 最終章 | Trackback | Comments(0)
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